時流に乗って生き延びた者が勝者かもしれない。その代表は前田利家・利長父子だろう。信長、秀吉、家康と上手に渡り歩いて、日本一の大名となった。柴田勝家か羽柴秀吉か、石田三成か徳川家康か。現代の私たちなら迷いはないが、どう転ぶのか分からない当時の状況をよく切り抜けたものだと思う。
節を曲げることを潔しとせず、華々しく散った敗者も、歴史ではけっこう人気だ。本日は毛利氏と尼子氏の狭間で揺れ動いた伯耆の国人の姿を見ることとしよう。
鳥取県日野郡江府町江尾に町指定史跡の「江美城跡」がある。写真は櫓台跡で、秀峰大山を望むことができる。
この美しい風景と穏やかな風は、戦国の世と何ら異なることはないだろう。ただ、毛利氏や尼子氏の圧力で、景色を愛でる余裕がなかったかもしれない。説明板を読んでみよう。
江美城跡は、だいせん火砕流台地を造成して、築かれた中世の山城で文明年間(15世紀後半)に蜂塚安房守によって築城され、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と四代にわたってこの地を治めました。
永禄7年(1564)8月6日、尼子氏を攻略する為に山陰へ優攻してきた毛利氏により江尾城は攻略され、蜂塚氏は滅亡しました。
その後、美後・備中・美作方面に対する戦略的見地から、毛利氏により、蜂塚時代の中世的城郭から近世城郭へと大幅な改造がなされています。1997年12月の発掘調査により、多数の瓦片に混じって金箔装飾のある鯱瓦が発見されました。このことから安土桃山時代の後期、江尾城には金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な夜櫓があったことが分かりました。
江府町教育委員会
優攻は侵攻、美後は備後の誤りだと思われる。夜櫓の夜はなくてよいだろう。そんなことよりこの城で注目すべきは、県内唯一という「金箔瓦」の出土である。豊臣系大名の城跡から発見される例が多いことから、毛利氏の支配下で城郭が整備されたことを示している。
名将晴久の死後に弱体化した尼子氏を倒すべく、毛利氏は月山富田城への補給路を断とうとしていた。美作、備中方面と出雲を結ぶ要衝に位置する江美城は、永禄七年(1564)に毛利氏の攻撃により落城した。城主蜂塚氏は、なぜ毛利氏と戦う道を選んだのだろうか。時の流れが毛利氏にあることは明らかだったはずなのに。『陰徳太平記』巻之三十九「伯州江美之城没落之事」を読むこととしよう。
伯耆国江美ノ城主、蜂塚右衛門尉ハ、先年尼子ヲ背イテ、毛利家ノ命令ヲ請ケタリシガ、本庄父子ガ被誅ツルヨリ、又志ヲ反ヘシテ、本ノ尼子ノ幕下ト成リヌ、如斯(カク)テ富田城中、勢ヒ衰へテ頼ムカヒ無ク成リケレバ、蜂塚ガ一族共今ハ早ヤ尼子ノ為二義ヲ建テタリトモ、行末ニ於テ其益無カルヘシ、只再ヒ毛利家降参ノ縁ヲ求メラレ候へト、諫言ヲ納レタリケリ、サレ共蜂塚ハ、吾累年ノ好ミヲ忘レ、毛利家ニ腰ヲ折リツルサヘ思ヘバ志士義人ノ耻ツル所ナルニ、サラバ其マヽ二テ有リモ不果、亦本ノ尼子ニ帰服セシ事、是又千悔万悔也、然ルニ今尼子滅亡可在邇(チカキニ)ト見テ、復タ弱キヲ捨テ強キ二附カン事、人間ノ色身ヲ受ケタル者ハ不成所ニシテ禽獣夷狄ノ心トヤ云フヘキ、カヽル時節ニ至リテ貞節ヲ守リ、討死シタランコソセメテ旧悪ヲ少シハ葢(オホ)フ便リトモナルベキ、吾レ義心爰ニ極マレリ、命惜シク妻子モ不便ニ思ハンズル者共ハ、悉ク毛利家ニ降リ候ヘ、士ハ渡リ物也、何ソ恨ミトモ思フベキ、吾ハ一人タリト雖、当城ヲ枕トシテ善道ノ死ヲ守ルベキナリト云ケレバ、家ノ子郎(ろうとう)等共、皆此儀ニ心服シ、一向ニ討死ト思ヒ切ツテゾ居タリケル、
伯耆江美城の城主である蜂塚右衛門尉は、先年尼子氏に背き毛利氏の配下となっていたが、同じように寝返った本城常光が毛利元就に誅殺されたため考えを改め、もとの尼子氏の配下に戻った。そのうちに尼子氏の勢力が衰え頼りにならなくなってきたため、蜂塚の一族は
「もはや尼子氏に義理立てしても、お先真っ暗だろう。再び毛利氏に降参する道を探ってはいかがか。」
と進言した。ところが蜂塚右衛門尉は
「私は長年よしみを通じた尼子氏を裏切り毛利氏に頭を下げたことを義に反し恥ずかしく思っているが、そのままでいるならまだしも、また尼子氏のもとに帰って来たのも悔やむばかりだ。そして今、尼子氏の滅亡は近いと見て弱きを捨てて強きになびくのは、人のすることではなくけだものの心と言うべきだろう。このような状況にあって貞節を守り討死することは、かつての過ちを埋め合わせるよい機会だ。私は義に生きる。命が惜しく妻子が心配な者はみな、毛利氏のもとに行くがよい。武士はしょせん強きに味方し渡る身ぞ。どうして恨みに思うことがあろうか。私は一人になろうと、この城を枕に名誉の戦死をとげるつもりだ。」
と言った。これを聞いた家中の者たちはみな心を打たれ、討死の覚悟を決めたのである。
なんと美しい生き方だろうか。私は死を美化しようとは思わないが、これはこれで武士として立派な身の処し方だろう。地元江尾の人々は今も、毎年8月17日に「江尾十七夜」という行事で義に生きた城主を偲ぶという。
仮に蜂塚氏が再び毛利氏に寝返り関ヶ原後を生きたとすれば、おそらく主家に従って防長に移ったはずだ。そうすれば、江尾の歴史には蜂塚右衛門尉の名が記録されたであろうが、後世に生きる人々の心に留まることはなかったであろう。
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