大相撲夏場所が中止となった。3月の春場所は無観客試合で乗り切ったが、ついに無力士となった。これでは試合にならないので、残る方法は一人相撲しかないのではないか。
一人相撲なら私もよくやっているが、「一人角力」という神事が愛媛県の大山祇神社で行われている。稲の精霊との三本勝負で、二勝一敗で稲が勝つという。同じく見えない敵であるコロナには人間が勝たねばならない。大相撲の振興を願い、相撲にちなんだ古墳をレポートする。
総社市岡谷(おかだに)に「角力取山古墳」がある。市指定文化財である。
整然とした方墳だけならそれほど映えることはなかっただろうが、松の巨樹が時空の広がりを感じさせ桜が彩りを添えている。少し大きな石灯籠も違和感なく納まっている。もちろん築造当時の姿ではないが、美しさに磨きがかかったと言えるだろう。ところで、なぜ「角力取山」なのだろうか。説明板を読むこととしよう。
角力取山古墳(山手村指定史跡)
この古墳は、古墳時代中期、五世紀頃沖積地に築かれた全国でも珍しい方型古墳(高さ七メートル、南北三十メートル、東西三十七メートル)で、かつて地域の支配者であった豪族の墓陵と言われている。
古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神・御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いていたことから、角力取山と呼ばれるようになったと言う。
大松(岡山県指定天然記念物)
この黒松は、高さ約二十メートル、目通り周囲約五メートル、樹令約四百年で昭和五~六年頃までは、四本の巨木があったが、半世紀の間に三本が枯れて、老松一本だけとなった。
山手村教育委員会
かつての山手村は小さいながらも文化財の密集する自治体だった。平成の大合併で総社市となり、新たな調査で一辺が40mと大きな方墳であることが分かったそうだ。出土した埴輪から五世紀後半の築造と考えられている。
埋葬施設については不明というが、隣接して横穴式石室があるではないか。
これは同市西郡(にしごおり)にあった「ギリギリ山古墳」の石室を移築したものである。
もとは県道270号清音真金線のそばにあった。この道は旧山陽道に沿っているので見どころが随所にある。道路を造れば古墳に当たるの状況だったから、せめて石室だけでもと保存措置が講じられたのだろう。説明板を読んでみよう。
通称 ギリギリ山古墳(持坂二〇号墳)
この古墳は本村西郡下山田上に築かれていたものを昭和五十四年県道建設のとき発掘してここに移して復元した六世紀中葉の円墳で七世紀中葉には二人以上が追葬されていた。
現地では、西向きに二段階築された横穴式古墳であったが残念ながら天井石は失われていた。
墳丘 高さ 四米 直径 約三〇米
玄室 長さ 四、二米 巾 二、四米
羨道 長さ 二、八米 巾 一、一米
墓道 長さ 三米 巾 一、一米
平成二年一月 山手村教育委員会
「ギリギリ山」という名称も気になるが、説明がないので分からない。道路のルートがあと少しずれていたらギリギリで残ったのに、という悔しさをにじませているのか。「ぎり」は頭のてっぺんのつむじのことだから、ギリを巻いているように見える円墳だったのかもしれない。
岡山市北区尾上(おのうえ)に国指定史跡の「尾上車山(おのうえくるまやま)古墳」がある。
写真は後円部で、緑の濃淡から分かるように段々になっており、ギリを巻いているように見えるのだ。説明板を読んでみよう。
全長一三〇メートルの前方後円墳で、ギリギリ山古墳とも呼ばれている。吉備中山南東部、標高約五十メートルの尾根部先端に位置する。現在、南方には平野が広がっているが、この古墳が築造された当時は、山裾まで海が迫っており、内海に面した大形前方後円墳であった。
墳丘は、後世の段畑開墾が著しく本来の築成ははっきりしないが、三段築成であった可能性が強い。前方部は、低く細長い特徴的な形態を東に向けている。後円部頂に想定される埋葬主体については、不明であるが墳丘上で埴輪が採集されている。
築造年代は、墳丘形態や埴輪から古墳時代前期前半(四世紀中頃)と推定される。同じく吉備中山にある中山茶臼山古墳(全長二〇メートル)に続いて築造されたと考えられる大首長墓である。
平成十四年三月 岡山市教育委員会
4世紀中ごろの前方後円墳、5世紀後半の方墳、6世紀中ごろの円墳と、年代も墳形も異なる3基の古墳を紹介した。共通項は何もないように思えるが、いずれも見晴らしのよい場所に築かれている。これは権威を民衆に知らしめるためとされるが、案外、眺めのよい場所なら安らかに眠れるだろう、という御遺族の配慮だったかもしれない。
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