浦島太郎は三線を弾きながら「うみの~こえが~」と浜辺で歌うイメージが強くなってしまった。桐谷健太の浦ちゃんである。いいとこ全部持って行っちゃってる感じで、日本史上最強の浦島キャラと評価してよいだろう。本来の浦島は「おいお前、ホントにだいじょうぶか」と心配したくなるような気の優しい若者なのだが。
三豊市詫間町松崎のJR詫間駅前に「浦島太郎像」がある。
武将ならクールベットという馬の前足を上げた騎馬像がよくある。浦島の仲間の桃太郎なら、犬猿雉を連れていざ鬼が島へという姿だろう。いずれもここぞというキメポーズなのである。ところがどうだ。詫間の浦ちゃんは浜辺でしゃがんでいるが、三線を弾いているのではなくカメを逃がしている。このことが自らの運命を変えていくことも知らないで。物語を先へ進めよう。
詫間町箱に「常世亀(とこよがめ)」がある。「箱」という地名そのものが浦島伝説の必須アイテム、玉手箱を示している。
亀が見つめる方角に竜宮があるのだという。乙ちゃんとの日々を終えた浦ちゃんが「あれはいったい何だったんだ」と放心状態で見つめたのも同じ海であった。写真では亀の石像よりツーショット顔ハメのほうが印象強いかもしれない。県立高瀬高校美術部の作品である。
常世亀のすぐ近くに「浦島太郎墓碑」がある。
「諸大龍王」の迫力ある石碑は龍神に対する信仰心の篤さを表すかのようだ。石碑には次のように刻まれている。
海上安全商売繁昌諸人快楽
弘化第四龍集丁未陽復吉旦
人々の願いが三つ分かりやすく示されている。二行目は日付で「龍集」は一年、「陽復」は十一月を表すことから、弘化四年十一月吉日のことである。あえて龍の字を使うのも信仰の証だろう。説明文の刻まれた副碑が手前にあり、次のように刻まれている。
浦島太郎墓碑の由来
諸大龍王は海を支配する龍神である。龍宮には龍神が祀られ此処の主は乙姫である。浦島太郎は龍宮の使者である亀に乗り龍宮城に招かれ乙姫の寵愛を受けながら数百年を過ごしたと言う。
弘化四年(一八四七年)箱の浦人たちが龍神、乙姫と太郎を尊崇し、太郎と両親の墓前(竹生島)にこの墓碑を建立し、海上安全と商売繁盛、諸人快楽を祈願したものである。
墓碑の証として前面が卒塔婆の形に彫られ、(梵字アン)字がある。また台の石は亀の形をしており浦島太郎の行遊記を偲ばせている。墓碑の後方にある五輪の塔が太郎親子三人の墓であり、太郎が玉手箱を開けたこの地を卜して碑を建立したものであろう。
平成九年三月
「諸大龍王」ばかりが目立つが、後ろに小さな墓が三基ある。数百年のタイムトラベルをした浦島太郎はいったい、いつの時代の人だったのだろう。
詫間町大浜の丸山島は干潮の時なら歩いて渡ることができる。ここに浦島神社が鎮座し、社前に「浦島太郎像」がある。
この対岸の鴨之越でいじめられていた亀を助けたのだと伝えられている。キッチュな雰囲気ながら気になって仕方ない太郎像を、もう一体紹介しておこう。
詫間町箱に「浦島太郎像」がある。
この地は糸之越と呼ばれ、太郎が釣りをしていた場所だと伝えられている。峠を越えると詫間町生里(なまり)で、太郎の生まれた里だという。私が折りたたみ自転車で走り回った荘内半島は、起伏が意外に多くてなかなか先に進めない。一部は自転車を担いで山道を進んだほどだ。それでも瀬戸内海の透明感のある青と紫雲出山(しうでやま)の若々しい緑、そして優しい太郎像に励まされて半島を一周した。
この紫雲出山、太郎が開けた玉手箱から立ち昇った白煙が紫の雲となって山にたなびいたのだという。像や墓碑、顔ハメという観光スポットに加えて、色彩豊かな景観、さらには地名をストーリーの中で楽しむことができる。イケメン浦ちゃんには会えないが、うどん県の荘内半島は伝説の一大テーマパークである。
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