「岬めぐり」という名曲がある。岬めぐりのバスが今も走っているのか知らないが、岬までのドライブはよくあるだろう。考えてみれば、陸が終わって海が始まるだけの地点だから、地球上どこにでもある。それでも岬には行きたくなる魅力があるのだ。
達成感か、到達感か。山の頂を目指す人と同じ気持ちながら、垂直よりも水平に移動する方が楽なので、岬を目指したくなるのか。私は名曲「岬めぐり」の影響も大きいと思う。理屈抜きに、その気にさせる歌だからだ。
みさきーめぐりのー♪と、その日私はバスではなく、折りたたみ自転車で荘内半島一周、最長到達点を三崎と定め海岸を快走していた。東海岸はよかったが、半島先端部は山道のため自転車は使えず、西海岸はけっこう起伏の大きな道でヘロヘロになった。その西海岸で、このような美しい山に出会ったのである。
すでに最長到達点に達していた私は、次の目標を最高到達点と定め「紫雲出山」に登った。自転車をかなりの距離、押したことは言うまでもない。
紫雲出山の山頂で絶景を楽しんだ後は、遺跡について学ぶとよいだろう。三豊市詫間町積(つむ)に「紫雲出山遺跡」がある。
竪穴住居と高床倉庫の前で、弥生人のお父さんが出迎えてくれた。「何しに来たんじゃ?」と言うから、「弥生時代の遺跡があると聞いたんで」と答えると、「弥生時代とはいつのことじゃ?」とまた尋ねる。「今から2000年近く前ですよ」と答えると、「そりゃ、えらい古いな」と驚く。「いやいや、あなた方にとっては今ですよ」と教えると、「何を言ってるのか分からん。カエレ!」と叱られた。とりあえず、説明板を読むことにしよう。
紫雲出山遺跡
紫雲出山(三五二)の山頂に形成された。弥生時代中期の高地性遺跡、昭和二二年地元の郷土史家前田雄三氏が発見し、昭和三一年から翌三二年にかけて、当時の京都大学講師小林行雄先生によって発掘調査された。
土器の包含層は山頂一帯に広がり、住居址と思われる列石遺構のほかに貝塚も発見されている。出土品は、弥生時代の中期から中期末の多数の土器のほかに、打製石鏃、石槍、環状石斧、打製石庖丁、磨製石斧、分銅形土製品、貝輪、鉄器片、シコクビエなどがみられる。
なかでも長くて重量性のある石鏃が多数出土していることは、とくに注目され、荘内半島の最高所に立地するという地形上の特性からも、軍事的、防禦的性格を帯びた特殊な遺跡として学界でも注目されている。
詫間町教育委員会
小林行雄先生は三角縁神獣鏡の研究をもとに邪馬台国畿内説を唱えた考古学者である。武器に生活用具、住居址の出土。シコクビエは雑穀の一種。主食となっていたのだろうか。弥生時代の遺跡なら登呂遺跡のような平地のイメージがあるが、それとはまったく異なる高地性遺跡である。なぜ高地なのか?
瀬戸内各地に朝鮮式山城が築かれた7世紀後期のように、軍事的な緊張状態にあったという解釈が一般的だ。倭国大乱である。武器の出土が何よりの証拠となる。ところが近年、2000年前に発生した南海トラフ巨大地震との関連を指摘する向きもあるようだ。高台は安全とはいえ、ここまで登るのか。
私もこの日、自転車で海抜0mから352mの高みに達した。弥生人の男は海で獲ったマダイとともに登ったことだろう。遺跡からは鹿の骨で作った釣り針やマダイの骨が出土するそうだ。その大きさは推定1m超。弥生のお父さんには頭が下がります。
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