ふぐで有名な「下関」に対して、「上関」という地名があるを知ったのは原発反対運動のニュースからだった。山口県には上関町という自治体がある。原発のほうは、現在中断している海域ボーリング調査が10月頃に再開される予定というが、いったいどうなるのだろうか。
下があれば上がある。そのあいだにあるのは中だろう。そう「中関」が防府市の中関港のあたりにあったようだ。上中下あわせて周防灘三海関と呼ばれている。ところが瀬戸内の関所は、これだけではなかった。
三豊市詫間町生里(なまり)に「関ノ浦」がある。
美しい風景を独り占めできる、ちょっとした秘境スポットである。ここまで来るのにどれほどの時間と体力を要したことか。私はJR詫間駅から折りたたみ自転車で室浜まで来た。もっともここまでなら車でも可だ。室浜の集落を抜けて山に入ってからはひたすら歩く。三崎神社の手前まで来ると「関ノ浦」の説明板があり、次のように記されている。
この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。
その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関(かみのせき)、中関(なかのせき)、下関(しものせき)と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれたといいます。
きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。
時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
平成元年三月 香川県
距離の割には高低差があるので、けっこう大変だった。こんなところによくもまあ関所を設けたものだと感心したが、海からのアクセスなら容易である。地味な浦のようだが調べを進めると、お歴々が船旅の途中に立ち寄っていることが分かった。昭和十三年の『香川県神社誌』には、三豊郡荘内村大字生里字三崎に鎮座する三崎神社の由緒が、次のように記されている。
伝ふる所によれば、菅原道真当社に参拝せし時風波荒くして渡海困難なりしかば「讃岐なる箱の三崎にたつ波も人のあはれを思ひしるかな」と詠じ、これによって風波鎮まれりといふ。藤原純友の弟権介純之京師より伊予に帰国の途次船中安全を祈りて着用の鎧を奉納し、又純友の乱を起すや、之を討伐の為め小野好古等伊予に向ふの途次戦勝を祈り太刀及び冑を奉納せり。(中略)足利義満亦尊崇して筑紫に発向の途次参拝せし由を伝ふ。
まず菅原道真公。菅公が立ち寄ったというのはよくある伝説で、詠んだ歌も菅公のレベルではなさそうだ。次に、藤原純友の弟だという権介純之は初耳だ。江戸前期の通俗史書『前太平記』には、純友の弟として「権亮(ごんのすけ)純素」「七郎大夫純行(すみゆき)」が活躍している。
小野好古は藤原純友討伐を果たした追捕使。この地で祈ったとしても違和感がない。いっぽう足利義満が九州に遠征したという事実はない。西に向かったとすれば厳島だろう。ところが通俗史書『明智軍記』第一巻「足利将軍家長物語事」には、次のような記述がある。
又九州にて菊池肥後の守武光(たけみつ)始より南方の御方と為し良懐(よしやす)親王を吉野殿より申し下し征西将軍宮と号し筑紫を討取べしと企(くはだつ)るに依て閣(さしをき)難くして応安七年の春の比征夷将軍義満都より九州へ発向小弐大友伊東大内を先陣とし細川斯波畠山土岐佐々木京極一色赤松今川荒川以下都合十万余騎鎮西に至り菊池と合戦あり武光討負(うちまけ)降参を乞(こふ)之に依て筑紫の目代には駿河蒲原の主今川伊予守貞世入道了俊を指置(さしおか)れ同九月に西国自り義満公帰洛し給ふ
応安七年(1374)に将軍義満は九州に向かい、菊池武光を降参させたという。実際には、武光は前年に没している。眉唾な情報が多く歴史研究としては価値が低いとされるが、伝承の形成には大きく影響しているようだ。
この美しく小さな入り江に、下関と並び称されるような賑わいが本当にあったのか。藤原純友の乱の勝敗を左右する戦勝祈願が本当に行われたのか。さざ波が優しく音を立てるばかりで、かつての様子は想像すらできない。時計を見ればけっこういい時間だ。乗る舟のない私は坂を上って帰途についた。VIPが上ったかもしれないこの坂を。
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