鉄腕アトムの妹ウランちゃんは、今なら、まずない命名だろう。かつてアトムとウランは最先端の“あにいもうと”だった。その頃の原子力は希望であり未来だったのである。『鉄腕アトム』の連載は昭和27年から始まり、ウランちゃんの初登場は同30年だという。
鳥取県東伯郡三朝町大字木地山(きじやま)に「人形峠ウラン鉱床露頭発見の地」がある。
原子力を生み出す燃料ウランは、昭和30年にこの地で発見された。我が国に2か所だけのウラン鉱山(※もう一つは昭和39年発見の東濃鉱山)である。銘板には次のように記されている。
昭和30年11月12日発見
通商産業省地質調査所
鉱業権者 動力炉・核燃料開発事業団
昭和56年3月27日設置
我が国の原子力開発で一時代を築いた「動燃」の名前を見ることができる。当時の岡山県苫田郡上齋原村は動燃と協力して、人形峠にウラン濃縮試験工場の誘致に成功する。鍬入れ式は昭和52年8月11日。のちに短命ながらも首相となる宇野宗佑科学技術庁長官が出席した。
この工場では、昭和54年12月26日に初の国産濃縮ウラン生産に成功する。イケイケどんどんの時代相が垣間見える。同55年に岡山県企画部企画課が『私たちと人形峠-ウラン開発とその安全対策-』という冊子を発行したのも、この勢いがあってこそだろう。この冊子には、昭和30年の露頭発見の模様が、次のように記されている。
連日の長距離ドライブで、へとへとになっていた探査班の人たちが、突然、興奮し、顔を輝かせたのは、昭和三十年(一九五五年)十一月十二日の日暮れどきでした。
「きょうは、これくらいで引きあげようや。くたびれたよ」
そう話しながら、人形峠にさしかかったとき、カウンターが、急に「ピッ、ピッ、ピッ」と大きな音を立て始めたのです。
「おやっ」
高瀬さんたちは、顔を見合わせました。それまでに聞いたことのないほど大きな音だったからです。
「ちょっとバックだ」
ジープをゆっくりとバックさせると、カウンターの音が、だんだん強くなり、そして再び弱くなって行きます。ジープを前進させたり、後進させたりして、音が最大になるところを探します。
「ここらだ。ストップ」
高瀬さんたちは、ジープを降りました。夕暮れで暗いので、手さぐりで岩石のサンプルを採集しました。それを、あくる朝、鑑定してみたところ、ふつうの火山岩(安山岩)で、それには放射能がありませんでした。高瀬さんたちは、がっかりしました。
しかし、それであきらめたわけではありません。後日、再びそこを訪ねて、土を掘ってみますと、そこには、泥岩や砂岩、れき岩などの層がありました。明らかに水の底で出来た地層でした。カウンターを当ててみますと、カウンターは、パチンコの玉が「大当たり」の穴にはいったときのような、はでな音をたてました。
「やったぞ。ウランだ」
「まちがいない。こいつは、ウラン鉱だ」
鉱床の一部が地表に出ているところを「露頭」といいますが、それは、まぎれもなく、ウラン鉱床の露頭でした。しかも、それまでだれも予想しなかった水成岩(海や湖などの底に土砂や石こうが積もって出来た岩)の鉱床でした。「大規模な鉱床が地下に広がっているにちがいない」と、高瀬さんたちは、希望に胸をふくらませました。
希望に満ちた国産ウラン鉱だったが、結局は高品位の海外産に頼らざるを得ず、昭和62年(1987)に探鉱・採鉱は終了した。また、ウラン濃縮についても平成13年(2001)で操業を終え、現在は解体、除染の作業が進行している。
ウラン鉱山としては今やすっかり夢の跡となっているのだが、施設や設備の処理にはずいぶん時間がかかるようだ。工事完了後、モニタリング終了までに20~30年、長期的な緩やかな管理は200~300年は必要と考えられている。
人形峠ウラン鉱山はパンドラの箱だったのだろうか。福島原発では津波がパンドラの箱を開けてしまい、とんでもない厄災が飛び出してしまった。あわてて原子炉建屋をカバーで覆ったが、中に残ったのは希望ではなくデブリだった。科学技術の進展により万能の力を得たように見える人間だが、手を出してはいけないものがあるのではないだろうか。
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