岡山はなんでもかんでも桃太郎というイメージがあるが、その発祥は昭和五年(1930)だという。難波金之助という彫金家が著書『桃太郎の史実』で、吉備津彦命の温羅退治が桃太郎話のモデルだと発表したのである。
意外に歴史が浅いことに驚かされるが、さらに驚くべき事実があった。『桃太郎の史実』に先立つ昭和三年(1928)発行の『三保村誌』に桃太郎伝説が記されているというのだ。三保村は現在の久米郡美咲町にあった自治体である。それゆえ美咲町では、桃太郎伝説の「元祖」だとアピールしている。
岡山県久米郡美咲町打穴中に「鬼山(おにやま)城址」がある。コワい赤鬼が「ようこそ」と出迎えてくれている。陰からそっと見ている桃太郎の幟には「元祖桃太郎伝説」と書かれている。
鬼が出るか蛇が出るか知らないが、勇気を出して登城することとしよう。
南の丸、北の丸と南北二つの郭があり、写真の北の丸が主郭となる。この城について津山市教育委員会『美作国の山城』は、次のように紹介している。
『三保村誌』に玉置玄蕃守の居城で、天正二年(一五七四)三月三日、高陣峰(美咲町両山寺)にあった尼子照平が攻撃、玄蕃守と照平は討死したとの伝承を載せるとする。
玉置玄蕃守を宇喜多方とすれば、宇喜多氏は当時毛利氏に近付いていたから、大きくとらえると毛利VS反毛利(尼子再興軍)の戦いなのかもしれない。
城から南西方面に「高陣峰(高陣山城)」がある。鬼山城の玉置玄蕃守が鬼ならば、高陣峰の尼子照平は桃太郎なのだろうか。戦ったのはいいが、共に討死している。そこで『三保村誌』の記述を確かめてみると、次のように記されていた。
昔は三峯山と云って居た。紀元一千八百年代保延の年、此の山に悪鬼現はれ種々災害をかもした。焼寺も此の時の災にかゝったと云ふ事である。当時桃太郎と異名をとった、豪傑が此の里に住んでゐた。或日単身此の山に登り、悪鬼と格闘し迯ぐるを追ひ一剣のもとに退治た。其の処が今の退治山である。桃太郎は意気揚々凱歌をあげた。其の所が勝﨏でる。村民大に喜び村內安全の祝詞をあげた。其の処が所謂祝詞である。是れから三峰山を鬼截山と改め、或は鬼山とも云ひ、築城に及んで鬼城と云った。
保延とは崇徳天皇、つまり院政期の元号で、桃太郎伝説と戦国の争いは関係がなさそうだ。ただし「鬼城」といえば、総社市の「鬼ノ城」を思い出す。スタンダード版桃太郎伝説の舞台だ。観光地や文化財としては鬼ノ城のほうが有名かもしれないが、地元愛なら鬼山城を守る人々も負けていない。鬼ノ城よりもアクセスしやすいことも申し添えておこう。
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