備前岡山藩の池田光政は仁政を布いた名君として高く評価されている。仁とは思いやりであり、寛容の精神が欠かせない。聡明な光政は十四五歳のころに、京都所司代を務めた名奉行、板倉勝重にズバリ「民を治めるには、どのようにしたらよいのでしょうか」と尋ねたという。岡山藩士が編纂した『有斐録』第六話を読んでみよう。
十四五ばかりの御時にや、板倉伊賀守勝重に、国民を治め申さん事如何心得候べきと問せ給ひしに、勝重京都の商売の輩の訴を判断の上に年月を経て、国政を行ふ道はわきまへしらずといはれしに、公重て、京都所司代の誉世に高くおはす、必国の事は先務有べしと語らせ給へば、勝重さらば可申候、方なる箱に味噌を入て、丸きしゃくしにてとるべき様に、はからひ給はん事然るべからんと答へ申されければ、公やゝ久しく思惟の後、心得難く候、隅の行届きがきたきを如何し候べきと仰有ければ、勝重、其事に候、我は東照宮に仕へ奉り、あまた智謀勇才ありと人に称らるゝ諸将をも見申候へども、公の如く年若くおはして、心を国事に尽させ給ふ人は、今日始てしりて驚候余りに、かくは申候ぬ、公の明敏、国中を角々迄罫をもりたるやうにと思召ならん、大国は左はならぬ物と承伝へて、唯今のごとくに申つれば、果して御不審の候ひき、国事は寛ならざれば人心を得がたき事にて候とて、勝重落涙せられけり、
岡山藩主の池田光政公が14、5歳のころのことでございます。幕府の重臣、板倉勝重公と次のようなやりとりをなさいました。
光政「国の民を治めるには、どのような心得が必要なのでしょうか。」
勝重「わしはこれまで京都で商人の訴訟ばかり扱ってきたので、政治のことはよく分からんのだ。」
光政「貴殿の京都所司代としての名声はよく存じ上げております。政治において第一にすべきことを熟知されていると心得ます。」
勝重「そこまで言うなら、お話しよう。四角い箱に味噌を入れ、丸いしゃもじですくう。そのような心掛けが肝要かと。」
光政「……。分かりませぬ。その隅の行き届かないところをどうすればよいのでしょう。」
勝重「そこじゃ。よく気付かれた。わしは家康公にお仕えし、知恵も勇気もある武将をたくさん見てきたが、あなたのように若くして国のことを真剣に考える方は今日初めてで、驚きの余り言葉が見つからぬほどよ。聡明なあなたは、国じゅうのすみずみまでに手を入れようと考えておられるが、備前のような大国はそうはいかぬもの。」
光政「……。」
勝重「政治は寛容でなければ、人の心がつかめませんぞ。」
勝重公の目には涙が浮かんでおりました。
指導を受けた光政は寛容な政治を行うようになったのだろうか。検証することとしよう。
津山市福田に「比丘尼塚」がある。
近世の史跡として紹介しているが、古墳の話から始めたい。この地には総数178基の佐良山古墳群があり、群衆墳研究の記念碑的遺跡として知られている。最近も支群のひとつ桑山古墳群から、子どもの人骨(3号墳)だとかほぼ完形の脚付装飾壺(5号墳)が発掘されたとニュースになった。
この比丘尼塚は、もとは横穴式石室をもつ円墳であったが、近世になって日蓮宗不受不施派の殉教地という意味が加わり、他に類例のない貴重な史跡となっている。詳しいことは説明板で読んでみよう。
剣戸古墳群と東塚・西塚
この一帯には、六世紀から七世紀にかけてつくられた多数の古墳があり、佐良山古墳群の中の剣戸古墳群とよばれています。その支群には、丸山古墳群(消滅)、中宮古墳群(九基)、高野山根古墳群(三基)、剣戸古墳群(十二基)などがあります。前方後円墳の高野山根一・二号墳以外のほとんどは円墳です。横穴式石室をもち、中に陶棺を納める例の多いのが特徴です。
この剣戸東塚(十四号墳)も円墳で、横穴式石室をもつ古墳の一つです。墳丘は、直径約十九メートル、高さ約四メートルあります。石室の規模は、奥行き九・五メートル、幅約一・八メートルで、高さは約二メートルです。
寛文九年(一六六九)、日蓮宗不受不施派の青年僧日勢とうら若い四人の女性信者は、備前藩の宗教弾圧に抵抗し、この石室内で、題目一途に数十日の断食生活を送り、命を絶ちました。そのことから、法華塚あるいは比丘尼塚ともよばれています。
この古墳西側にも、ほぼ同形同大の横穴式石室墳があり、剣戸西塚(十三号墳)とよばれています。かつて、陶棺が発見されたと伝わっています。ともに、六世紀の終わりころにつくられた古墳とみられます。
平成十五年八月 津山市教育委員会
日蓮宗不受不施派の歴史については、本ブログ記事「江戸幕府、もう一つの宗教弾圧」で紹介した。宗教弾圧はキリシタンばかりが知られているが、不受不施派についても着目すべきだろう。派祖と位置付けられるのが日奥(にちおう)上人、京都妙覚寺19世である。その妙覚寺を本山と仰ぐ末寺は全国にあったが、とりわけ備前に多く、備前法華の内実は不受不施派の信仰拠点であった。
日奥上人が秀吉や家康に弾圧されて以来、不受不施派への圧迫は次第に強くなり、ついに寛文九年(1669)、幕府によって公的に禁止されてしまう。これに先立つ寛文六年(1666)、岡山藩主池田光政は領内の不受不施派を問題視し、寺院淘汰を断行した。さらに寛文八年(1668)、備前佐伯本久寺の日閑をはじめとする矢田部六人衆を処刑、同二十八人衆を流罪とし、不受不施派を一掃する厳しい姿勢を見せたのである。福田五人衆の悲劇の背景には、寛容の精神とは真逆の宗教弾圧があった。もう一つの説明板を読んでみよう。
福田五人衆
備前での寛文の法難は、藩主池田光政によって不受不施派への徹底的な弾圧が加えられた。備前佐伯本久寺住僧の竪住院日勢聖人は難を遁れて作州に潜入後、寛文九年(1669)二月に此の塚を断食終焉の地と定めて入篭せられた。奥壁に向かい読経唱題しつつ玄題を刻み、従う四人の比丘尼と共に入定される。
日勢聖人 三月十三日寂 四十一歳
妙意尼 三月十八日寂 三十四歳
妙定尼 三月二十一日寂 二十一歳
妙現尼 三月二十四日寂 二十二歳
妙勢尼 三月二十六日寂 四十二歳
平成二十一年 高祖会砌
日蓮宗不受不施派立正護法会建立
キリシタンの殉教と不受不施派の殉教に何の違いがあろうか。一途な信仰心に深く敬意を表したい。板倉勝重公から寛容の精神を説いてもらった光政は、宗教においてはついに寛容になれなかった。真面目な理想主義者だったのだろう。お目こぼしによって悲劇は避けられたかもしれないのに。四角い入れ物で丸くすくう。この教訓の意義が改めて感じられる出来事であった。
追記(2021年11月6日)
岡山市北区建部町大田に「寛文法難比丘尼家第参百遠忌供養塔」がある。手前の標柱には「比丘尼供養墓」と記されている。
日勢上人は備前国津高郡建部の出身であることが分かっている。4人の比丘尼もそうかもしれない。