我が国で最も有名な人工島は、ポートアイランドだろうか、関空だろうか、それともやはりお台場か。いや、もっと歴史があって重要な人工島がある。長崎の出島だ。今は埋立によってとても島には見えなくなっているが、将来的には四方に水面を確保し、扇形の島を完全に復元する壮大な計画があるという。
長崎市出島町に国指定史跡の「出島和蘭商館跡」がある。かつての出島の東端に位置する。
写真に見える洋風建築は明治11年建築の旧出島神学校である。我が国最古のプロテスタントの神学校で、長崎らしいエキゾチックな雰囲気を放つ貴重な存在だ。鎖国期の姿は出島内にあるミニ出島で確認できる。私たちが思うほどには異国的でなく地味に感じる。説明板を読んでみよう。
出島は寛永13年(1636)キリスト教の布教を防ぐ目的で、市中に雑居していたポルトガル人を一か所に集め、住まわせるために幕府の命により造られた面積約15,000m2の扇形をした人工の島です。寛永16年(1639)のポルトガル人退去後は一時無人の島となりましたが、同18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間我が国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられました。出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫などが建ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていました。幕末から明治にかけての港湾改良工事などで周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形が失われましたが、日本の近代化に大きな役割を果たした貴重な歴史的文化遺産であることから大正11年(1922)に国の史跡に指定されています。
扇形らしい曲線は中島川沿いで確認できる。
これとて、出島側の河岸はかつての姿ではない。そもそも中島川はここを流れていなかった。明治半ばの中島川変流工事で、川の流れが現在のように曲げられるとともに川幅が拡げられたため、出島の岸はかつてに比べて後退しているのだ。
出島の埋立が進むいっぽうで、長崎港は大規模な改良工事で発展し、上海や大連を結ぶ航路が開かれた。戦前の日中(日華)の往来がたいへん盛んで、「長崎県上海市」と呼ばれるほど中国は身近な存在だったという。
近年はコロナのせいか東シナ海の拡大によるものか、日中間の距離が大きく感じられる。オランダであれ中国であれ、外国との善隣友好の記憶を大切にしておくべきだろう。新たな関係を築く時、過去の記憶が追い風となって後押ししてくれるからだ。
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