陛下や殿下という敬称は皇室報道でよく使われる。閣下を日常で使うことはないが、ドラマではよく耳にする。これに対して「台下」は聞いたことがない。いったいどのようなお方に対する敬称なのか。具体的な使用例がこれだ。
令和元年11月24日(日)、ローマ教皇フランシスコ台下が本県をご訪問されました。教皇台下のご来県は、1981年の故ヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目のことです。
長崎県国際課ホームページに掲載されたお知らせである。法王という呼称が教皇に変化したことで、今も世界史が続いているのだと実感したが、「台下」にも近代的な価値では測りえない権威を感じる。本日は、その教皇台下が親しく祈りを捧げられた場所を紹介しよう。
長崎市西坂町に「日本二十六聖人殉教地」がある。昭和31年に県指定の史跡となった。
手前は「日本二十六聖人殉教記念碑」で昭和36年に建てられた。我が国を代表する彫刻家、舟越保武が昇天する26人の姿を表現している。彼らの身に何があったのだろうか。説明板を読んでみよう。
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。
この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862年)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられた。
長崎市教育委員会(平成27年設置)
このブログでは二十六聖人のうち、これまで三人を紹介した。すわなち、聖ディエゴ喜斎(記念碑の右から5番目)の「聖人として帰ってきた故郷」、聖トマス小崎(右から20番目)の「すべての人に大いなる慈悲を」で、聖パウロ三木(右から6番目)の「天国にいちばん近い学校」である。記念碑には聖書の一節が示されている。
人若し我に従はんと欲せば、己を捨て十字架をとりて我に従ふべし
マルコ第八章
イエスは、自分を捨て神に従え、と言っている。絶対的なものに従うことで解放されるとの逆説。親鸞の絶対他力もそうであろうか。カントが道徳法則にしたがったのも、そうであろうか。
その日午前、雨の降るなか、記念碑の前で教皇台下は二十六聖人を「聖パウロ三⽊と同志殉教者」と表現し、聴き入る人々に次のようなメッセージを発した。
すべての⼈に、世界の隅々に⾄るまで、信教の⾃由が保障されるよう声を上げましょう。また、宗教の名を使ったすべての不正に対しても声を上げましょう。
この言葉こそ、二十六聖人の思いであったろう。自らの信仰に忠実に生きようとした人々を国家権力が不当に弾圧したのである。秀吉は「日本は神国たるところ、キリシタン国より邪法を授け候儀、はなはだもってしかるべからず候事」と、神の国発言によって弾圧を正当化しているのである。
記念碑の向こうにサグラダ・ファミリアのような尖塔が見える。長崎のランドマークの一つ、聖フィリッポ教会である。けっこう主張するデザインだが、違和感を感じないのは長崎であればこそだろう。
教会の手前に記念碑があるのがお分かりだろうか。「日本二十六聖人殉教跡」と刻まれた碑がある。建立は昭和二十年代らしい。私が訪れた時はかなり傷んでいたが、教皇台下のご来崎前に塗り直されたようだ。
聖地にふさわしい景観となっている西坂には、戦災前に真宗大谷派の説教所があった。実は殉教地の正確な位置については明確でなく、昭和15年の坂口安吾『イノチガケ』には次のように記されている。
彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で洗礼名をペトロとよぶ二名の者が護送の一行と共に殉教を志願、合計二十六名となり、一五九七年二月五日、長崎立山の海にひらかれた丘の上でクルスにかけられて突殺された。
「長崎立山の海にひらかれた丘」が西坂を指すのかどうか。長崎市立山という地名が西坂町の東にある。殉教地が現在地に確定したのは昭和22年のこと。県戦災復興委員会が公園整備を決めたことによるものだ。
二十六聖人にとって京から長崎への道のりは「ヴィア・ドロローサ」であり、海にひらかれた丘は「ゴルゴダの丘」であった。コロナ禍の中で誰もが苦難の道を歩んでいる。拠るべきものが何か分からない状況にあって、一歩ずつ足元を確かめながら進んでいる。自らの信ずるものが問われている。
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