南蛮にはもともと差別的なニュアンスが強く含まれているが、長い歴史の中で窯変し、今やロマンあふれる言葉になっている。南蛮屏風に描かれた西洋との邂逅、火縄銃、キリシタン、カステラ、弥助と名付けられた黒人武士、そしてエリマキトカゲのような襟とボンタンズボンの南蛮人。外国人ではなく異人と呼ぶにふさわしいエキゾチシズムが漂う。
さらに南蛮が発展的に活用され、チキン南蛮に到達すると、もはやロマンどころではない。それは至福と呼んで過言ではないだろう。本日はチキン南蛮ゆかりではなく、南蛮船が来航した港を紹介しよう。
長崎市江戸町の江戸町バス停近くに「南蛮船来航の波止場跡」と刻まれた石碑がある。
周囲は普通の都市景観なので、南蛮ロマンに浸るにはかなりの想像力を必要とする。ここは長崎湾内にあった森崎という岬の突端で、有名な出島にも近い。説明板を読んでみよう。
元亀2年(1571)、ポルトガル船とポルトガル人がチャーターした唐船の合計2隻が初めて長崎港に入港しました。以後もポルトガル船は毎年のように来航し、長崎は国際貿易都市として急速に発展していきました。
当時、ここは長い岬の先端部分で、波止場がありました。天正10年(1582)、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ、4人の天正少年使節がローマに向けて出航したのも、慶長19年(1614)、高山右近や内藤如安らキリシタンがマニラやマカオに追放されたのも、すべてこの波止場でした。
初めのころ肥前で南蛮船の来航がさかんだったのは、松浦隆信の肥前平戸(1550~)だった。ライバルの大村純忠が横瀬浦(1562~)を開港すると、日匍間でトラブルが生じていた平戸からポルトガル船が移ってきた。ところが横瀬浦は大村氏の内紛によって焼討ちに遭ったため、ポルトガル船は再び平戸(1564~)、次いで福田浦(1565~)に入港するようになった。
しかし福田浦は安全面に難があったので、さらに適地を求めたところ長崎が見つかったのである。そして元亀二年(1571)年、長崎に初めて南蛮船が入港する。だから来年2021年は長崎開港450周年に当たるので、長崎市が記念事業を企画している。
いま長崎港といえば松が枝国際観光船埠頭に世界各地から寄港するクルーズ客船だろう。戦前はいまの出島ワーフから出航する日華連絡船によって上海と結ばれていた。江戸時代は出島でオランダと結ばれ、それ以前は今日紹介の波止場でポルトガルと結ばれていたのである。
南蛮という言葉にロマンを感じるのはポルトガル人が来なくなってしまったからだろう。そしてキリスト教が禁じられてしまったからだろう。西洋文化との初めての邂逅がもたらす高揚感はずいぶん遠い過去になってしまった。ないものを求めるのが憧れならば、南蛮文化への憧憬はこれからも残り続けることだろう。
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