「げんぽくん」というどんぐり眼の津山市公式キャラクターがいる。洋学ファンならお気付きであろうが、津山藩出身で語学力を生かし幕末の対外交渉に参画した蘭学者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)である。このブログでも「近代を告げた手紙を訳す」で紹介したことがある。
津山駅前の銅像はどんぐり眼ではないが、有名な肖像写真はギョロリとこちらを見る視線が印象的だ。本日は箕作家のお墓を紹介することとしよう。
津山市林田に「箕作家墓所」がある。
江戸で亡くなった阮甫の墓はここにはなく、多磨霊園にある。ここには兄を含め父祖の墓がきれいに並べられている。優秀な人材を輩出した箕作家とは、どのような家系だったのだろうか。津山洋学資料館友の会が設置した説明板には、次のように記されている。
箕作家は近江源氏の一族で、佐々木を姓とし、平安末期から戦国時代の終わりまで、守護・戦国大名として近江一帯を治めていた。
初めて箕作を称したのは、佐々木二十二代の高頼の子で、箕作山城主であった定頼である。その子義賢のとき、織田信長方との戦いに敗れ、その後、箕作阮甫から五代前の泰秀のとき、大坂冬の陣に再起をかけ、大坂方として参戦したが、これを果たせず小豆島に逃れ、のち美作楢原(今の英田郡美作町楢原)に移り住んだ。泰秀の子で兄の泰連は楢原にとどまり、弟の義林が津山藩森家二代藩主長継に仕え、津山箕作家の祖となった。
この墓所には、義林と妻(神崎氏)、医家初代貞辨(禿翁)、その先妻(松本氏)、後妻(延原氏)、医家二代貞隆(養子恕斎)、その妻(貞辨の娘みき<造酒子>)、医家三代津山藩医貞固(阮甫の父)、その妻 (きよ<清子>萬波氏)、医学修業中若死した豊順(阮甫の兄)ら九基の墓をはじめ、銘のない七基の墓がある。これは貞辨に二人、貞隆に三人、貞固に二人の早世した子供がいたので、それらのものと思われる。
阮甫に至る家系を列記すると次のようになる。
佐々木高頼→<子>→箕作定頼→<子>→義賢(承禎)→<孫>→泰秀→<子>→義林→<子>→貞辨→<養子>→貞隆→<子>→貞固→<子>→阮甫
このうち特に有名なのは義賢(承禎)で、織田信長に頑強に抵抗した戦国大名である。名字は「六角」のはずだが、先代の定頼から「箕作」を名乗っていたという。通説とは異なるこの主張は『江源武鑑』を根拠としている。
ところがこの『江源武鑑』は、定頼とその子孫を嫡流ではないと主張するトンデモ歴史が記されているという。義賢(承禎)と泰秀とのつながりも不明確で、名族佐々木氏の子孫と称するのは少々盛り過ぎの感が否めない。
それでも医者の家として長年かけて培ってきた信用は、阮甫の成長を助けたことだろう。男児がいなかった阮甫だが、秋坪、省吾という優秀な婿養子に恵まれ、箕作一族は学者の家系として知られるようになる。省吾の子麟祥が死に際して男爵を授けられので、華族にも列することとなった。
また、秋坪の子菊池大麓も男爵となった。大麓の娘は鳩山秀夫に嫁いだが、秀夫の兄一郎は政治家として知られている。その一郎の孫が、言動が時々注目を集める鳩山由紀夫元首相である。さすがは華麗なる一族、ご先祖様もご子孫も優れた方ばかりいらっしゃる。
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