福知山市や亀岡市では『麒麟がくる』以前から明智光秀が高く評価されていた。城下町や治水の基盤を築いた「恩人」なのである。同様な例は全国各地にあって、岡山市は宇喜多直家、福山市は水野勝成に感謝し、蒲生氏郷は松阪市と会津若松市の両市で顕彰されている。
藩主として長く君臨したのは福知山では朽木家、亀岡(丹波亀山)では形原松平家、岡山では池田家、福山では阿部家なのだが、城下町建設の恩人ほどには人気があると言えない。本日は城下町高松建設の恩人にフォーカスしよう。
高松市番町二丁目の公園(二番丁公園)に「生駒親正公尊像」がある。一見、吉田松陰像のような雰囲気を感じるが、激動の戦国を生き抜いた武将である。甲冑姿でないのは戦闘ではなく城下町建設の指揮を執ったことを評価しているからだろう。「公」と「尊」が最大級の敬意を表している。
ここ番町はかつて武家屋敷があった場所で、一番丁から十番丁までの区域があったらしい。公園で遊ぶ子どもたちを静かに見守る生駒親正。どのような武将だったのか、説明板を読んでみよう。
生駒氏は藤原氏の一流で、もと大和の生駒に住み、地名を氏とした。親正ははじめ織田信長、ついで豊臣秀吉につかえて功があった。赤穂六万石を領し雅楽頭に任ぜられ、一五八七年(天正十五年)八月、讃岐国十七万国に封ぜられた。親正は居城として、黒田如水の設計で、香東郡箆原(のはら)荘海辺の八輪島に城を築くことを決め、この地を屋島の南にあった高松郷の名をとり高松と名づけた。天正十六年に城下の町づくりを進め、町割は士農工商の分に応じて居住区域が定められた。城の南から西にかけては重臣が配され、さらに市街、西部の一番丁、三番丁は侍屋敷、東北部から南部にかけて、生活必需品を売る商人や武士に必要な品をつくる職人を集団的に住まわせ商人職人町に区画させた。早くできた町人町は本町、津るや町などである。丸亀から移住させた商人たちの丸亀町、職人町では大工町など、今も当時の名をとどめている。
城は西と東に舟入を設け、南方だけが陸地で、水陸の攻防と水運を考えた水城である。
生駒親正から一正、正俊、高俊と四代五四年の間今日の高松の基礎を築いた。後に寛永十九年には、約一万三千人の人口であった。
高俊の時、客臣西嶋八兵衛を伊勢より招き香東川の変更、溜池などの土木事業を完成、大きな発展を遂げたが、家臣の争いによる生駒騒動のため、生駒高俊は出羽国(秋田県)矢島に退転させられた。親正は慶長八年二月十三日七十八歳で亡くなり、諡名は海依弘憲大禅定門といい、弘憲寺にご夫妻の墓がある。高松の創始の祖生駒親正公の遺徳を後世に末長く伝承するため、高松市二番丁校区地域住民の総意で石造を設置するものである。
平成八年三月吉日
高松名付けの親でもあることが分かる。そういえば屋島の南に「古高松」という地名があるが、親正はこの地名をとって新しい高松を築いたのだ。ただし、関ヶ原では判断を誤ったのか信念からか、西軍に属して立場を危うくした。幸いなことに子の一正が東軍に属していたために、生駒家の讃岐一国は安堵される。
しかし寛永十四年(1637)、四代目の高俊の時代のことである。藩主が藩政を顧みないうちに家中の不和が激しさを増し、この年に明るみに出た。権力をかさに藩政を専断した前野助左衛門派とこれを不正とする生駒帯刀派は、縁戚の仲裁にも納得せずグダグダの御家騒動となる。ついに同十七年(1640)に幕府が裁定し、生駒帯刀派有利に決着するが、藩主高俊は監督責任を問われ出羽に流された。
毎年秋に仏生山大名行列という華やかな祭りがあるが、これは松平頼重公が菩提寺の法然寺を参拝する時の大名行列の様子を再現したものだ。御連枝松平家の品格は現代の人々をも魅了し、不祥事によって讃岐を去った生駒家にはあまり関心が向けられていない。藩祖親正公に生駒騒動は何ら関係がない。城下町高松を語るうえで欠くべからざる恩人を、二番丁校区地域住民に倣って再び評価しようではないか。
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