神様が降臨したり聖母が出現したり、あるいは菩薩が地中から涌き出たりと、聖なるものは突然現れる。実際に現れるのか、心がそのように感じるのか、脳が知覚する幻想なのか、経験がないので分からない。本日はずいぶん昔から今に残る仏像を見つけた、いや、仏が私の前に出現したのでレポートする。
加東市上三草に「地蔵磨崖仏」があり、市の文化財に指定されている。
ここは播磨と丹波を結ぶ重要な交通路だから、多くの旅人が仏の前で合掌し先を急いだことだろう。説明板を読んでみよう。
露頭する岩脈に地蔵菩薩立像が半肉彫りされています。
蓮華座上に立ち、舟形光背の内に浅く彫り込まれた尊顔は、地蔵菩薩立像としては厳しい目や口元をしています。右手で握る錫杖は斜めに刻まれています。
光背の左右にそれぞれ右のような刻書が認められます。永和元年(1375)の紀年銘から南北朝期の作例であることがわかり、蓮華座などに当時の作風をよく留めています。石造物の指標となる資料として貴重な存在です。
(左側)「□□□□□妻女」(右側)「永和元年卯月廿四日」
永和は北朝第5代の後円融天皇の年号、将軍は足利義満で幕府は安定期に入っていた。永和元年4月24日は南朝ならば文中四年だが、赤松義則が守護であった播磨では、南朝の影響など微塵もなかっただろう。長年風雨に晒されているにもかかわらず、お顔の表情まで読み取れるとは、彫りが良かったというより仏が現れているからだろうか。
地蔵磨崖仏の左隣に「二尊石仏(にそんせきぶつ)」がある。もっと多くの仏さまが刻まれた「どっこいさん」を紹介したことがあるが、二尊が刻まれたレリーフは珍しい。説明板を読んでみよう。
上三草の旧丹波街道沿いに建立されている二尊を刻んだ竜山石の板碑で、法量は、現高104cm、幅55cm、厚さ14cmを測ります。
向かって右側に阿弥陀如来坐像、左側に地蔵菩薩立像が刻まれています。像を刻むために背面を削り、蓮華座は浮彫りされていますので、本来は、この板碑はより厚みがあったことが分かります。
加東市域で二尊を刻む石仏は数少なく、本例は高砂市付近で製作され、持ち込まれたことが石材から分かります。
銘文は刻まれていないものの、蓮華座などの作例から磨崖仏と同様、南北朝期のものと推定されます。
石材として有名な竜山石で作られている。加工しやすい石は風化もしやすいのかと思ったら、そうでもないらしい。丹波街道は源義経が進軍し、明智光秀が進軍しなかった歴史的な道である。光秀もこの二尊石仏の傍らを進んでおれば、また違った人生があったであろうに。
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