アメリカではオバマ大統領の誕生、我が国では民主党への政権交代と、2009年はリベラルな民主主義が確立し、ついに「歴史の終わり」がやってきた、と思ったものだ。全体主義的な独裁政治でも、一部の者だけが幅を利かす寡頭政治でもなく、熟議によって最適解が導き出される公正公平な政治が現実になったかに見えた。それは過去に例のない新たな発展段階であり、退行するなどありえない「歴史の終わり」のはずであった。
ところが今やどうだ。政府に反対する学者を排除する動き(学術会議任命拒否問題)が見られ、これに同調する読売・産経と疑問を呈する毎日・朝日、新聞同様に世論も二分されている。滝川事件や天皇機関説事件を思い起こせば分かるように、歴史は新たな段階でも終わったのでもない。繰り返しているのだ。これから起きる出来事で、過去に起きなかったことなど一つもないのかもしれない。
戦後の歴史学ではマルクス主義が主流で、百姓一揆の研究がずいぶん進んだ。私が今、戦前の思想弾圧事件との類似性を指摘したように、マルキストは当時の労働運動の盛り上がりに百姓一揆を重ねていたのである。過去を見つめることで現代が見えやすくなるのだ。本日は未発に終わった百姓一揆ゆかりの地を紹介しよう。
兵庫県佐用郡佐用町延吉(のぶよし)に「義民牛右衛門追慕碑」がある。
元文四年(1739)、因美国境地帯に不穏な雰囲気に包まれていた。因幡では勘右衛門騒動、美作では勝北非人騒動が発生、さらには隣接する播磨にも波及しようとしていた。説明板を読んでみよう。
江戸時代中期元文三年(一七三八年)等地方は大凶作となり、人々は困窮した。平福領主河内守康年に救済を要請したが聞き入れられず、遂いに翌年三月平福領内に百姓一揆が起こり「天狗状」なるものを各村(十九ヶ村)に回し、強訴に及ばんと計画中代官所役人がかぎつけ、首謀者として正吉村「百姓牛右衛門」(四十一才)は囚われの身となり一揆騒動は未発に終わった。牛右衛門は一年間入牢し多くの人と共に断罪されることとなり、元文五年六月平福金倉橋袂で処刑され、佐用川原の露となった。多くの村人たちの苦しみを一身に背負い、その立志救済の行為は後世に語り継がれ、大正二年五月(一九一三年)地域有志によって「牛右衛門追慕碑」が建立され、今も集落の守り神として崇められている。
当碑は中国横断自動車道姫路鳥取線工事に伴い、平成十七年四月末宗荒神社と共に当地に移築された。
平成二十一年一月 平福文化と観光の会
当時の平福領主は松井松平家の旗本松平康年であった。一族では松平周防守家が大名として栄え、武蔵川越藩主として維新を迎えている。平福領での百姓一揆は因美両国とは異なり計画段階で鎮圧されたが、牛右衛門が首謀者として処刑となった。正吉村は明治になって友延村と一つになり、現在の大字「延吉」になった。
人々の困窮を何とか訴え出ようとした牛右衛門。その厚い義侠心に感謝し、大正二年五月に追慕碑が建立された。この年の二月、首都では護憲運動が大いに盛り上がり、第三次桂太郎内閣が倒された。民衆の直接行動によって政変が起きたのである。
延吉の人々も大正デモクラシーの気風を受け、直接行動の先駆者牛右衛門に着目したのであろう。やはり歴史は繰り返す。とすれば批判的な学者を排除する現在は、どのような未来につながるということなのだろうか。
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