日本最古の天文記録はオーロラだったという驚くべき研究成果を、今年3月に国立極地研究所が発表した。当時は新型コロナの混乱ですっかりスルーしていたが、この話題は今年中に紹介しておかねばなるまい。というのも、その天体現象が出現したのは今からちょうど1400年前のこと。記録されているのは『日本書紀』。その『日本書紀』が編纂されてちょうど今年が1300年の記念の年なのだ。オーロラの記録を見てみよう。推古二十八年(620)十二月一日条である。
十二月庚寅朔、天に赤気(あかしるし)有り、長さ一丈余、形雉尾(きじのを)に似たり。
扇形オーロラという超レアな天文現象らしい。正史『日本書紀』は皇位の正統性を示す書きぶりが注目されがちだが、メモランダムとしても史料価値があるのだ。その成立の記事を『続日本紀』で読んでみよう。養老四年(720)五月二十一日条である。
是より先、一品舎人親王(いっぽんとねりしんのう)勅を奉て日本紀を修む。是に至て功成り、紀卅巻系図一巻を奏上す。
それから1300年。我が国の古代史が明らかになっているのは、正史編纂という大事業を成し遂げた舎人親王のおかげと感謝せずにはいられない。島根県立古代出雲歴史博物館で開催中の「編纂1300年 日本書紀と出雲」でも、このことが親王のお姿とともに紹介されていた。
せっかく出雲まで来たのだから、神話の舞台を一つ訪ねてみることとしよう。
出雲市大社町杵築北(きづききた)に「屏風岩」がある。「編纂1300年 日本書紀と出雲」展でも紹介されていた。
屏風か衝立のように岩が立っている。危険だから入るなと注意書きがあるが、確かに風化が進んでおり脆いように見える。ここで有名な「国譲り」が行われたというのだ。1300年前の日本書紀が遥か昔のこととして記録した説話だから、その古さは計り知れない。説明板を読んでみよう。
出雲国を造られた大国主命と高天原からの使者として派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、この岩陰で国譲りの話し合いをされました。
戦うことなく笑顔で国譲りをされた大国主命の「和を尊し」とする心は、今もなお出雲の人々の心に受けつがれています。
国譲り神話は『古事記』のストーリーがよく知られているが、「武甕槌神」は『日本書紀』の表記(『古事記』は「建御雷神」)だから、ここでは『日本書紀』の関係部を紹介しよう。高天原(=天上界)のタカミムスビは葦原中国(あしはらのなかつくに=地上界)を支配すべく、アメノホヒやアメノワカヒコを遣わすがうまくいかない。そこでタカミムスビは…。『日本書紀』巻第二「神代下」には、次のように記されている。
是の後に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)更に諸神(もろかんたち)を会(つど)へて、まさに葦原中国(あしはらのなかつくに)に遣はすべき者(ひと)を選びたまふ。僉(みな)曰(まうさ)く、磐裂(いはさく)〔磐裂、此をばイハサクと云ふ、〕根裂神(ねさくのかみ)の子(みこ)、磐筒男(いはつつのを)磐筒女(いはつつのめ)が生(あ)れませる子、経津主神(ふつぬしのかみ)〔経津、此をばフツと云ふ、〕是れ佳けむ。時に天石窟(あまのいはや)に住む神、稜威雄走神(いつのをばしりのかみ)の子(みこ)甕速日神(みかはやひのかみ)、甕速日神の子熯速日神(ひのはやひのかみ)、熯速日神の子武甕槌神(たけみかづちのかみ)ます。此の神進みて曰く、豈唯(あにただ)経津主神のみ丈夫(ますらを)にして、吾(やつがれ)は丈夫にあらざらんや。其の辞(ことば)気(いきざし)慷慨(はげし)。故れ以て即ち経津主神に配(そ)へて葦原中国を平(む)けしむ。
ニ神(ふたはしらのかみ)是に出雲国の五十田狹(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りまして、則ち十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、倒(さか)しまに地に植(つきた)てて、其の鋒端(さき)に踞(しりうた)げて、大己貴神(おほなむちのかみ)に問ひて曰(のたまは)く、高皇産霊尊皇孫(すめみま)を降(くだ)しまつりて此の地(くに)に君臨(きみとし)たまはむと欲(おほ)す。故れ先づ我ニ神を遣はして、駈除(はら)ひ平定(む)けしむ、汝(いまし)が意(こゝろ)如何、避(さ)りまつらむや不(いな)やといふ。時に、大己貴神対(こた)へて曰く、まさに我が子に問ひて、然して後に報(かへりことまう)さん。
是の時に其の子事代主神(ことしろぬしのかみ)遊行(ゆ)きて出雲国の三穂(みほ)〔三穂、此をばミホと云ふ、〕の碕(さき)に在(いま)す、釣魚(つり)するを以て楽(わざ)と為す。或に曰く、遊鳥(とりのあそび)を楽(わざ)と為す。故れ熊野諸手船(もろたふね)〔亦の名は天鴿船(あまのはとふね)、〕を以て使者(つかひ)稲背脛(いなせはぎ)を載せて遣はして、高皇産霊尊の勅(みことのり)を事代主神に致し、且(かつ)は報(かへりことまう)さん辞(ことば)を問ふ。時に事代主神使者(つかひ)に謂(かた)りて曰く、今天神(あまつかみ)此の借問(と)ひたまふ勅(みことのり)あり、我が父(かぞ)冝しく避り奉るべし、吾れ亦違(たが)ひまつらじ。因(より)て海の中に、八重蒼柴籬(やへあをふしがき)を造りて、〔柴、此をばフシと云ふ、〕船枻(ふなのへ)を踏んで〔船枻、此をばフナノヘと云ふ、〕避りぬ。使者既に還りて報命(かへりことまう)す。
故れ大己貴神則ち其の子の辞(まうすこと)を以てニ神に白(まう)して曰(のたまは)く、我が怙(たの)めし子だにも既に避去(さ)りまつりぬ。故れ吾れ亦避りまつるべし。如(も)し吾れ防禦(ほせ)がましかば、国の内の諸神必ずまさに同く禦(ほせ)ぎてん。今我れ避り奉る、誰か復た敢て順(まつろ)はぬ者あらんといひて、乃ち平国(くにむ)けし時に杖(つ)けりし広矛(ひろほこ)を以て、ニ神に授け奉りて曰(のたまは)く、吾れ此の矛を以て卒(つひ)に治功(なせること)あり、天孫(あまみま)若し此の矛を用(も)て国を治めたまはば、必ず平安(さきく)ましまさん、今我れまさに百不足(もゝたらず)の八十隈(やそくまで)に隠去(かく)れなむ、〔隈、此をばクマデと云ふ、〕言ひ訖(をは)りて遂に隠れましぬ。是(こゝ)に二神諸(もろ/\)の順(まつろ)はぬ鬼神等(かんたち)を誅(つみな)ひて、〔一(ある)に伝ふ、ニ神遂に邪神(あしきかみ)及び草木石(いは)の類を誅ひて、皆已に平げ了んぬ、其の服(うべな)はぬ者、唯星神、香香背男(かがせを)のみ、故れまた倭文神(しづりがみ)建葉槌命(たけはつちのみこと)を遣はせば則ち服ひぬ。故れニ神天(あめ)に登る。倭文神、此をばシヅリカミと云ふ。〕果(つひ)に復命(かへりことまう)す。
タカミムスビは神々を集めて地上界に遣わす神を選ぶことにした。みんなはこう言った。
「イワサク・ネサクの子、イワツツノオ・イワツツノメが生んだ子、フツヌシがよいだろう。」
この時、アマノイワトに住む神イツノオバシリの子、ミカハヤヒの子、ヒハヤヒの子タケミカヅチが進み出て、
「どうしてフツヌシだけが勇者で、私は勇者でないというのか。」
と激しい息遣いで言った。それゆえフツヌシとともに地上界に向かった。
二柱の神は出雲の稲佐の浜に降臨し、長剣を抜いて地面に突き立て、そこに座ってオオクニヌシに問うた。
「タカミムスビは皇孫ニニギを地上界に君臨させようとしていらっしゃる。そのため私たちを派遣し、事前協議で話をまとめておくよう命じたのだ。あなたのお考えはどうなのか。この地から去るのか去らないのか。」
そこで、オオクニヌシはこう答えた。
「うちの子に聞いてからにしますから、返事は後でさせていただきます。」
この時、オオクニヌシの子コトシロヌシは出雲の美保関に来て釣りをしていた。別伝では鳥の狩りに来ていたという。
そこで熊野の諸手船(またの名をアマノハトフネ)に使者のイナセハギを乗せて遣わし、タカミムスビの意向を伝え、その返答を尋ねた。すると、コトシロヌシは使者にこう言った。
「いま天津神のご意向をうかがいました。我が父は謹んでこの地を離れるがよろしいでしょう。私も同じようにいたします。」
そして海中に青い柴垣をつくり、船の端を踏んで姿を消した。使者は帰ってこのことを報告した。
これを受け、オオクニヌシは子のコトシロヌシの進言のとおりに、フツヌシ・タケミカヅチに申し上げることにした。
「頼みの我が子でさえ、この地を離れたのです。私も去るほうがよいようです。もし私が抵抗したならば、国津神もこぞって抵抗するでしょう。ここで私が去るなら、従わない者などないでしょう。」
そして、地上界を平定した時に用いた広矛をフツヌシ・タケミカヅチに差出して、こう言った。
「私はこの矛で国をまとめてきました。ニニギさまもこの矛で国を治めれば平和な世となるでしょう。私は迷路のような場所に隠れることにいたします。」
言い終えるとオオクニヌシは姿を消してしまった。フツヌシ・タケミカヅチは、抵抗する国津神を服従させ、天上界に戻っていった。
別伝によれば、二神は従わない神から草木石に至るまですべてを平定した。それでも抵抗したのは星の神カガセオだけであり、織物の神タケハヅチを遣わしてこれを服属させた。この後、二神は天上界に戻ったという。
こうして『日本書紀』を読んでみると、戦うことなく国譲りをしたことは確かだが、屏風岩の岩陰での交渉が笑顔だったかは疑問である。韓国併合も戦争こそ起きなかったが、決して笑顔ではなく「和を尊し」と呼べるものでもなかった。
おそらく国譲りの神話は、天上界が圧倒的な勢力で地上界に迫り、地上界は服属を余儀なくされた物語ではなかったか。しかし天上界に連なる王家としては平和裡の交渉であったとの解釈としたかったのだろう。
神話の世界からどれくらいの歳月を経ただろう。それは1300年をはるかに超えている。今に至っては天上界も地上界もなく、我が国は一つであり、そこに住む同朋であれば誰もが笑顔で譲り合って生活したいと願っている。屏風岩の説話は誰もが分かり合えるというファンタジーを伝えているような気がしてならない。
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