大河『麒麟がくる』のストーリーを一次史料で確認できる事実のみに限定したら、ドラマにならないだろう。それほど光秀の生涯は不明瞭なのだが、主君信長を倒すという衝撃の事実によって、知らぬ者なしの有名人になった。
これまでは、いじめられた末についにプッツンきてやっちまった人物だったが、今回の光秀はさまざまな人物の知遇を得て、各方面に通じるスーパーヒーローだ。「大きな世」をつくるために奔走し、歴史上の事件に次から次へと絡んで、時代を動かしたのは光秀その人だったかのように見える。
そんな八面六臂の活躍を支えるのが伊呂波太夫という旅芸人の女座長で、尾野真千子さんが演じている。有名人に顔が利き下々の事情にも通じていることから、ドラマの展開には欠かせない役割を持つ。そのモデルといわれている女性を本日は紹介しよう。
出雲市大社町修理免(しゅうりめん)に「出雲阿国像」がある。出雲大社平成の大遷宮を記念して平成二十五年に建立された。
京都を代表する彫刻家、山崎正義の作品である。京都四條にも同じ作品が置かれているという。バランスの取れたポーズはどこから見ても美しい。説明板を読んでみよう。
歌舞伎の始祖出雲阿国は、出雲大社の鍛冶職中村三右衛門の娘と言われ、出雲大社の巫女として大人たちと共に出雲大社修理費勧進の旅に出かけ、天賦の才能を発揮して、喝采を浴びました。
子どもの頃の阿国は、すでに「ややこ踊り」の名手として、京都の宮廷や公家の間で名声を博していたことが記録に遺(のこ)されています。長ずるに及んで、当時京都の若者の間で流行していたかぶき者の風俗を踊りや寸劇で表現するようになりました。
その芸風も流行の小歌に合せて男装で踊ったり、さらに観客を楽しませる進行役(猿若)を置くなど、きわめて斬新なものでした。かぶき踊りは、京都の人々の間で大評判となり、阿国は「天下一」と称されるようになりました。
やがて徳川幕府は、「女かぶき」は世の風紀を乱すものとして禁止令を出したので、その後は男性のみで演ずることとなりました。これが、わが国を代表する演劇である「歌舞伎」として、今日に至っています。
阿国は、晩年ふるさと大社に帰り、尼となり智月尼(ちげつに)と称し、連歌庵で連歌と読経三昧の生活を送り、静かに余生を送ったと伝えられています。
平成二十五年四月吉日 出雲阿国像建立委員会
文中の「ややこ踊り」「天下一」については「天下一の歌舞伎役者」で紹介した。陣羽織を着た阿国は、刀を肩にかけ扇を翻している。現代の踊り連でもそうだが、女性が男装することで生じるイメージのずれが心を動かす。舞踏という高揚場面で異装するのは今も昔も変わらないのだ。
出雲阿国のイメージを伝える貴重な史料に京都国立博物館所蔵の重要文化財『阿国歌舞伎図』がある。左手に刀、右手に扇は同じだが髪型が異なる。銅像の阿国が切前髪であるのに対し、屏風の阿国はレイヤーカットのように見える。ちなみに伊呂波太夫は立兵庫である。
阿国の隣には頬かむりをした道化役の猿若が描かれており、華やかで楽しいエンターテイメントだったことが分かる。ちなみに2月20日は歌舞伎の日で、次の史料に基づいて定められたようだ。木下延俊『慶長日記』慶長十二年(1607)2月20日条である。
同廿日国ト云女歌舞伎先日勧進能ノアリツル場ニテ芸尽ス見ル者如市
「見る者市の如し」が阿国の面目躍如たるところだろう。『麒麟がくる』の伊呂波太夫は確かに架空かもしれないが、超人気の女芸人のイメージ形成には役立っている。
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