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母親に買ってもらった伝記は今も記憶がある。偕成社版の世界偉人伝のうち『ジンギスカン』『明治天皇』『宮本武蔵』、それに『リンカーン』もあったような気がする。話として面白いのは断然『宮本武蔵』。次から次へとツワモノを倒すのが痛快で何度も読んだ。
だから有馬喜兵衛が次のような高札を掲げたのも覚えていた。まさか何十年もの歳月を経て、決闘の現場を訪れることになろうとは。
告
何人たりとも望みしだい手合わせいたすべし
われこそ日下(ひのした)無双の兵法ものなり
有馬喜兵衛
兵庫県佐用郡佐用町宗行(むねゆき)に「宮本武蔵決闘の場」と「金倉の六地蔵」がある。
竹矢来で仕切られ、ちょっとした雰囲気がある。奥の石碑に刻まれている文を読んでみよう。
武蔵血闘の場
五輪之書の一節に「吾若年のむかしより兵法の道に心をかけ十三才にして初めて勝負す。その相手新当流の有馬喜兵衛と云ふ兵法者に打ち勝ち」云々とあり、時慶長二年こゝ因幡街道平福の宿場外れ松並木の続く金倉橋の袂での出来事である。
慶長二年というから1597年の事である。時代は大きく動こうとしていた。説明碑にはさらに詳しい物語が記されている。
宮本武蔵決闘の場
剣豪武蔵は、天正12年(1584)に母・於政と死別、その後、父・無二斉が、利神城主・別所林治(しげはる)の娘よし子を後妻に迎えたので、武蔵はこの義母に育てられた。武蔵7歳の時、父が死去、義母は武蔵を残し平福に帰り、田住政久(たずみまさひさ)の後妻となった。武蔵は、義母の後を追い、その叔父正蓮庵(しょうれんあん)の道林坊(どうりんぼう)にあずけられ、薫陶をうけ、道林坊の弟・長九郎(ちょうくろう)に武芸を学んだ。
武蔵13歳の時、「何人なりとも望みしだい手合せいたすべし。われこそ日下無双兵法者なり」という、新当流の達人・有馬喜兵衛の高札を見て、ここ金倉橋のたもとで初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したといわれる。(五輪書序文にこれを述べている)
武蔵の出生地とされる作州宮本とここ播州平福は、峠をはさんで因幡街道で結ばれている。平福の近く佐用町庵にある正蓮庵で武芸を磨き、平福宿の南端に位置する金倉橋の袂で初勝負に勝つのである。話として大変分かりやすい。
しかし武蔵本人の『五輪書』には、十三歳で有馬喜兵衛に勝利したことが記されるのみで場所は示されていない。そこで、明治42年の宮本武蔵遺蹟顕彰会『宮本武蔵』(金港堂書籍)で確認することとした。この書物は武蔵終焉の地である熊本の人々によって編纂され、武蔵の伝説形成に大きな役割を果たしている。第三章「武者修行を志す」で、次のような記述が見つかった。
丹治峯均筆記に、本文の事を記して、新当流の兵法者有馬喜兵衛といふもの播州に来り、浜辺に矢来を結び、金みがきの高札を立て、試合望次第可致旨を記す。
決闘の舞台は「浜辺」となっているから、内陸部の平福ではなさそうだ。さらに調べると、江戸時代の実録本を集めた早稲田大学出版部「近世実録全書」第7巻所収『宮本武蔵(増補英雄美談)』 「七之介有馬喜平次を打殺す事」には、有馬喜平次(喜兵衛のこと)が七之介(武蔵のこと)のいる寺の住持に伝えた言葉が記されている。
七之介殿の仕方差宥(ゆる)し難く候へ共、貴僧の扱ひに免じて真剣の勝負は止(とゞま)るべければ、明日午の刻に七之介殿を同道にて、姫路の城下外れの並木街道迄出でらるべし、其時某(それがし)参会致し、七之介殿に意見を加へ、世の礼法をも教え申べし
喜平次は大人として常識的な対応をしているのだが、これが命取りになるのだから人生分かったものではない。注目すべきは「姫路城下外れ」という決闘の場所だ。やはり平福ではない。「金倉橋のたもと」は、武蔵の美作生誕説の定着とともに創作された決闘場所だったのかもしれない。この場所にはどのような意味があるのだろうか。六地蔵の説明碑を読んでみよう。
金倉の六地蔵
町指定文化財
ここ金倉橋西の一帯は、平福町並みの南端に位置し松原と呼ばれており、江戸時代、平福藩刑場跡として伝えられているところから、この六地蔵は、その供養のために建てられたと考えることもできる。
この路傍に立つ六地蔵は、所々欠けてはいるが、気品のある美しさを漂わせる丸彫りの立像別石地蔵である。同所に元禄9年(1696)に建てられた南無阿弥陀仏の念仏碑があることから、同時期のものと想像される。
所在地 佐用郡佐用町宗行38-1
刑場があるのはいつも町外れである。外界との境界は冥界への入口でもあった。刑を受けて死んだのは凶悪な者だったのだろうが、もしかすると理不尽な死もあったかもしれない。有馬喜兵衛に何の落度があったというのか。出会ってはいけない相手に出遭ってしまっただけだ。平福の人々は六地蔵に喜兵衛の供養を託したかったに違いない。