コンビニでお弁当を買ったはいいが、箸が入っていなかった。仕方がないから、小枝を箸の長さに折り、表皮を剥がした後によく拭いて使ったことがある。無事にお弁当がいただけたことに感謝し、箸にした枝を地面にさしておいた。数年後に同じ地を訪れると、その枝は二本の大木に成長していた。
そんなわけがない。前半は本当だが、後半は妄想である。しかし伝説の世界にはよくある話で、このブログでも鞭から育った梅の木、杖から育った桜の木を紹介したことがある。本日は伝説研究のパイオニア柳田國男先生も注目した箸立て伝説の舞台をレポートする。
津山市南方中に「二ツ柳跡」がある。目の前の道は旧出雲街道である。
宿場では城下町津山と坪井宿の間にあって坪井寄りに位置する。写真は西向き津山方面が写っており、しばらく進むと歌枕で知られる久米のさら山が見えてくるだろう。街道筋だけあって伝説は旅人が主人公だ。先生がお書きになった御本を読んでみよう。柳田國男『日本の伝説』「御箸成長」より
美作大井荘の二つ柳の伝説などは、至つて近い頃の出来事のやうに信じられてをりました。ある時出雲国から一人の巡礼がやつて来て、こゝの観音堂に参詣をして、路のかたはらで食事をしました。この男は足を痛めてゐたので、これから先の永い旅行が無事に続けて行かれるかどうか、非常に心細く思ひまして、箸に使つた柳の小枝を地上にさして、道中安全を観音に祈りました。さうして旅をしてゐるうちに、だん/\と足の病気もよくなり、諸所の巡拝を残る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通つて気をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本(ふたもと)の柳となつてゐました。そこで二つ柳といふ地名が始まつたと伝へてをります。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植ゑついだといふのが、それもまた大木になっていたということであります。(作陽誌。岡山県久米郡大倭(やまと)村南方中)
原典は『作陽誌』西作誌中巻久米郡北分古跡部大井庄に掲載されている漢文である。これは現代の私たちにはあまりにも難解だ。先生の意訳がいかに分かりやすいか、いかに古蹟探訪に貢献しているかを実感できる。
巡礼は出雲から来たというから、ここで食事をすませると箸を突き立てて願をかけ、写真の方向に歩を進めたのであった。数年後に巡礼が戻ってみれば、箸は大きな木に成長していた。その木も二百年前の洪水で流され、二代目の木もまた大木となり、今はその木もなくなって美しい花壇となっている。
洪水のあった年は原典では「延宝元年(1673)」である。街道の整備が進み人々の往来が盛んになる中で、こうした伝説が生まれたのだろう。長く歩いていると膝が痛みはじめることがある。頼むから歩かせてくれと思いながら足を引きずることが、私もあった。道中どうか無事にと祈り、箸を立てて願掛けする気持ちは分かる気がする。
ここで注目したいのは原典の「折柳枝為箸」の部分だ。柳の枝を箸として使った後に、地面にさしておいた。これはまさしく挿し木ではないか。柳の挿し木は比較的成功しやすいという。挿し木というクローン技術がいつ開発されたのか定かではないが、天和元年(1681)の園芸書『花壇綱目』に記されているというから、江戸前期には普及していたのだろう。
江戸前期は我が国の高度成長期である。人口増加、新田開発、パクストクガワーナのもとで豊かさを求める人も多くなった。旅行と園芸が直接結び付くわけではないが、どちらもこの時代から人々の楽しみとなったように思える。
私が箸代わりに使った小枝も、もしかすると大きくなっているかも…。いやそれはない。私が使ったのはからからに乾いた枯枝だった。枯れ木に花を咲かせる力は私にはない。できるのは、ここにはこんな言い伝えがありますよ、と紹介する程度のことである。
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