お正月にNetflixで『オスマン帝国:皇帝たちの夜明け』というドキュメンタリー風のドラマを観た。ビザンツ最後の皇帝コンスタンティノス11世は、兵士を鼓舞する演説を行い、最後の突撃を敢行して死んでいった。これが千年の帝国の終焉かと思うと、胸が締め付けられる思いがする。
死ぬことに美しさなどないのだが、壮烈な死を語らせたら並ぶものがない『平家物語』巻第十一「能登殿最期」で、平教経は「いざうれ、己等(おのれら)死出(しで)の山の供せよ」と、両脇に安芸太郎次郎の兄弟を抱えて壇ノ浦の海に沈んだ。
そんな教経が山陰に足跡を残しているという。さっそく行ってみよう。
鳥取県岩美郡岩美町岩井の御湯神社境内に「能登守平教経卿矢研石」がある。標柱と囲みがなかったら、それと気付かないだろう。
教経については以前の記事「武者の姿と松の巨木」で、弓掛松伝説を紹介したことがある。今日は矢研石である。教経が弓矢とともに語られるのは、やはり『平家物語』巻第十一「嗣信最期」の描写に拠っているのだろう。読んでみよう。
能登守教経「船軍はやうある物ぞ。」とて鎧直垂(よろひひたゝれ)は著給はず、唐巻染(からまきぞめ)の小袖に唐綾威(からあやおどし)の鎧著て、いか物作(づくり)の大太刀帯(は)き、二十四差(さい)たるたかうすべうの矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓を持給へり。王城一の強弓精兵(つよゆみせいびやう)にておはせしかば、矢先に廻る者、射透さずと云ふ事なし。
平教経は「ふないくさには、やり方があるぞ」と、鎧直垂を着けずに唐巻染の小袖に唐綾威の鎧を着て、いかめしい大太刀を持ち、鷲の羽で上下と中央とに薄黒い模様のある矢羽根の矢を二十四本負い、黒漆塗りの束を籐で強く巻いた弓を持った。都で一番の強弓精兵と呼ばれ、狙われて射られない者はいなかった。
都で一番と評判の教経は、この矢研石にどのような物語を遺しているのだろうか。『岩美郡史』名所旧跡の章に、次のように記述されている。
能登守教経矢研石
岩井村大字岩井宿御湯神社ノ境内二在リ相伝フ能登守教経カ鏃ヲ研キタル石ナリト同社ヘモ教経ノ矢振ヲ納メアリシト云フ又教経ノ鏃ヲ所持セシ百姓アリシカ鳥取城主池田備中守時代下地人ノ代官安木行蓮ナル者其百姓カ貢租ヲ未納セルヲ責メ強テ其鏃ヲ横領シ且ツ百姓ヲ殺シテ罪跡ヲ煙滅ス其後但馬村岡ノ山名禅高へ高価二売却セシカハ山名ヨリ之ヲ池田二告知セリ備中守大ニ怒リ行蓮ヲ誅セリ因ニ同郡左近村ノ百姓三田分蔵モ能登守ノ矢ノ根二本ヲ所蔵セリト
矢じりにまつわる物語ではなく、鳥取藩役人による恐喝横領、殺人事件の顛末が記されている。ロマンでもなんでもない話たが、骨董品や古美術を巡る事件は今も相次いでいる。対馬仏像盗難事件は外交問題化しているし、古美術鑑定家殺人事件は名探偵コナンでも採り上げられている。
希少価値のある物を手にしたいという欲望が、すべてのトラブルの原点なのだ。矢研石とその近くで発生した事件の背景には、王城一の強弓精兵と謳われた平教経に対する強いあこがれがあった。そのイメージを形成したのが『平家物語』の描写力であったことは言うまでもない。
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