「王城一の強弓精兵なりければ、能登殿の矢先に廻る者、一人も射落とせれずと云ふ事なし」
『平家物語』巻第十一「嗣信最期の事」にこのように記された能登殿とは、平家の豪腕、能登守教経である。文弱に描かれやすい平家の公達の中では、文字通り源氏に一矢を報いている。
福山市沼隈町大字能登原の能登原八幡神社の前に「弓掛松」がある。
これは、能登守教経が弓をかけて休んだ松だとの伝説がある。昭和38年に枯死し、今は株だけが残っているが、それでもこの迫力である。かつての姿が写真で紹介されている。
能登原の地名も能登守教経にちなむということだが、この地で何があったのだろうか。沼隈町誌編さん委員会『沼隈町のくらしと伝承』を読んでみよう。
源平能登原合戦
屋島の戦いに敗れた平家は、鞆に陣を張ったが、源氏に攻められ能登原に陣を移した。源氏は軍を二つに分け、その一団は鞆に陣をしき、別の一団は那須与一を大将に、田島内浦に陣をしいた。
二日目の夜、田島側より、何十本ともみえる白旗がこちらにやってくるのを見つけ、「敵が来た。」と急を知らせた。平家の陣は急に騒がしくなり、教経を先頭に強弓を射かけた。いっこうに手ごたえがないので、じっと沖を見ると、白旗と見えたのは、かがり火に驚いて田島より飛び立った白鷺の大群であったことにほっとし、その夜は全員ぐっすりと眠った。次の日の夜明け、鞆にいた大軍が能登原に攻めこみ、不意をつかれた平氏は、田島からの数百隻の軍船にも攻められ、方々へ逃げていったという。
この話は、江戸時代の地誌『西備名区』に記されているとのことだ。ここでは史実かどうかよりも、この松が「王城一の強弓精兵」に結び付けられたことに注目したい。さもありなん、と感じさせるに充分な存在感である。
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