足利尊氏は逆臣だとか、ずいぶんと貶められた時期があったが、幕府を創設し武家政権の進展に寄与した歴史上前向きな評価を受けている。しかし、父親としてはどうだろう。非嫡出子である直冬を冷遇し、討伐軍まで向けている。兄としてもどうだろう。弟・直義との争いは南北朝の争いに拍車を掛け、幕府政治は安定しなかった。
福山市鞆町鞆の小烏神社は「小烏の森古戦場」である。
1349年4月、直義の支援で中国探題の要職に据えられた直冬は、張りきって鞆にやって来たに違いない。大可島に居城を構え政務を行った。その後の様子は現地の解説板に語ってもらおう。
直冬の施政よろしく備後一円の将兵はよくこれに従った。その噂を聞いた尊氏の武将高師直は日頃心良く思っていなかったので、尊氏に直冬謀反の兆しありとざん訴され、尊氏より追討のうきめにあい、家臣の河尻肥後守幸俊を主将に磯部左近将監を副将として手兵八〇〇を率い「小烏の森」に守備軍を伏せ、中央軍高師直の軍勢一五〇〇を迎え戦ったが、衆寡敵せず討死したと言われ、世に小烏の合戦と言う。
直冬自身は大可島の居館を出て西下した。これが同年9月のことである。その後、父・尊氏よろしく九州で力を養い、1355年には一時的に京都を奪還することとなる。つまり、この地はうまくいけば源頼朝における石橋山の戦い、徳川家康における三方ヶ原の戦いのように幕府創業の原点となったかもしれない。しかし、直冬の晩年は歴史に埋没して詳らかではない。小烏神社は、歴史が展開する可能性のあった史跡である。
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