越すに越されぬ大井川、と謡われた大井川の渡し。すぐ近くの場所を現在、東海道本線が通過している。交通の要衝は今も昔も変わらぬということだろう。ここを通らざるを得ない地形上の理由があるのだ。
地方の街道とて同じこと。本日は備前岡山と作州津山を結んだ津山往来が、いかに大河を越えたかを見ることとしよう。
岡山市北区建部町福渡に市指定の天然記念物の「八幡橋下の公孫樹」がある。旧建部町時代からの文化財で、合併後も選に漏れることがなかった。
傾きながらも、反り返ってバランスを保っている。訪れたのは夏だったから、盛んに光合成をして瑞々しい姿をしている。『たけべの文化財 改訂版』(平成8年)には、次のように記されている。
旧八幡橋下の川畔に自生し生育旺盛。地上2.7mで11本に分岐し、数個の気根が認められる。推定樹齢約250年といわれ、目通り周囲4.2m、樹高約26mである。また、同一場所に目通り周囲約2mの榎が交生している。
江戸中期から福渡に往来する旅人を見続けてきた公孫樹である。「福渡」の名の通り、ここは旭川の渡河地点であった。次の写真を見てもらいたい。
JR津山線の旭川橋梁と渡し場をイメージした川船である。かつての津山往来の渡し場と現代の鉄道橋梁が、大井川と同様に近接している。渡し場の名残りを探してみよう。
旭川右岸の岡山市北区建部町建部上に「八幡の渡し場」があった。渡し場の位置を特定する手がかりとなるのが写真の道標である。
岡山県歴史の道調査報告書第二集『津山往来』(平成四年)の踏査記録に、この道標のことが記載されている。読んでみよう。
高さ約一・三メートルのこの道標には「此川ら作州道 土おく山道」と刻まれ、この正面の河畔に「八幡の渡し場」があったことを示している。振り返って川端を眺めると今も一艘の川船が繋ぎ留めてあり、当時の面影を偲ぶことができる。ちなみに、この道標は下の方が四角にくり貫かれ、川船を繋いでいたとも言われる。(また、一説にはこの道標は他所にあったものが此の地に移設されたとも伝える。)
作州の中心部に向かう道だと分かるが、「土おく山道」とは何だろうか。「至おか山道」なら理解できるのだが。いずれにしてもここが渡河地点と考えてよいだろう。旧街道のルートと現代の鉄道が並行して旭川を渡っている。冒頭でふれた大井川と同じように。
もっとも、交通量が最多の国道53号はもう少し南の建部町吉田で旭川を渡っており、この点、国道1号が旧東海道に沿って渡河する大井川とは異なる。というのも、旧津山往来とJR津山線は南の金川で旭川を離れ箕地峠を越えて建部に出るが、国道53号は旭川に沿って北上しているのだ。
岡山から津山に向かうにしろ、津山から岡山に帰るにしても、運転に飽きてくるのが福渡のあたりだ。岡山市でありながら旧美作国というアンビバレンツ。県南なのか県北なのか。天気予報はどちらを信じるのか。気になることは多い。渡し場の北に架かる八幡歩道橋近くに、このような説明板がある。
福渡の町並
“行こうか岡山戻ろうか津山ここが思案の深渡”と俚歌にうたわれたこの地は、古くは美作の国久米郡弓削庄に属し、備前、美作の接点の地、今様にいえば岡山、津山、真庭圏域のターミナルの地として豊かな旭川を上り下りする舟の舟着場、津山往来の宿場町として栄えた所です。今も、建部地区の中心地として、また吉備高原の表玄関にふさわしい機能が集まっています。対岸には八幡温泉郷、その周辺には旭川ダム、日本最古の竹内流古武道発祥の地、三樹山自然保護地域や雄大な山地牧野、ゼンセン中央教育センターなど豊かな自然、歴史文化の豊かな町です。
環境省・岡山県
似たような俚謡は全国にあるようだ。江戸時代、ここが渡船ではなく橋が架かっていたら、思案橋と呼ばれたに違いない。行こうか戻ろうかと思案したというが、私は戻ったことがない。ここまで来たら、もう行くしかない。もっとも、目的地に着いてから財布を忘れたことに気付き、取りに帰ったことがある。その時は思案どころではなかった。
大井川川越遺跡周辺は4つの橋がある。古くからあるのは東海道本線の大井川橋梁、そして旧国道1号の大井川橋だ。これでは足りないと、現国道1号の新大井川橋、新東名高速の大井川橋が建設された。少し離れると東名高速の大井川橋、新幹線の大井川橋梁もある。これだけあれば、越すに越されぬは完全に昔話だ。
これに対して八幡の渡し場跡周辺は、津山線の旭川橋梁、八幡歩道橋、八幡橋がある。河原に出て渡し場の風情を楽しむもよし、津山線の気動車が来るのを気長に待つもよし、アーチの歩道橋を渡って対岸に行くもよし。大井川に架かる橋梁群にはない時間が、ここにはある。
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