承久の乱は日本史上最大の画期であるといって過言ではないだろう。源平合戦の頃には、後白河法皇の策略に武士は翻弄されていた。それから三十数年を経て承久の乱の戦後処理では、3人の上皇と2人の皇子の配流、天皇廃位、所領没収という過酷な処分を武士が下したのである。「皇をとって民となし民を皇となさん」という崇徳上皇の呪詛が顕現したかのように、力関係が逆転した。
本日は、隠岐へと流される後鳥羽上皇が、山陰に入る峠の手前で休息した時のお話である。
岡山県真庭郡新庄村田井の後鳥羽公園に「後鳥羽上皇歌碑」がある。
夏の陽射しで緑がいっそう濃くなった山深い場所だが、草は刈り込まれて散策しやすい。出雲街道から右手に、都大路のような広い山路が歌碑に続いている。説明板を読んでみよう。
歌碑
表面には
みやこ人たれふみそめて かよひけん
むかいの道のなつかいしきかな
この後鳥羽上皇の御歌は、大正三年(一九一四年)石碑に刻み、ここに建てられました。文字は当時の宮内大臣渡辺千秋の書かれたものです。
裏面には
後鳥羽上皇狩千隠岐也自美作入伯耆駐蹕千中山此即是云有御製歌
と、当時の宮内次官河村金五郎が書かれています。
新庄村教育委員会
渡邉千秋は第5代の宮内大臣。なんとノーベル化学賞の野依良治先生の曽祖父にあたるという。千秋の娘千夏の子である金城が野依家の婿養子となり、生まれた子どもが野依先生である。
説明文の「なつかいしきかな」は「なつかしきかな」の誤りで、この歌は『真庭郡誌』に次のように記されている。
遥かに一線の道筋を御覧ありて近侍の者に何所へ通ふ道ぞと御尋ねありければ是は昔都へ通ひし道にて今は誰も通ひ侍らず御答え申しければ花の都を御慕ひ遊ばさるゝ余り畏くも御落涙遊ばされて御涙ながらに
みやこ人たれ不美そめてかよ飛けん むかひのみちのなつかしきかな
「都へと続く道か。あの道を通って都に帰りたいものだ。しかし、いまは誰も通わぬという。私も通れぬのだろうな。」そのように悲観的になっていたのだろうか。それとも、「おお、あの道が古来都人が通った道か。ならば第一の都人である私にこそふさわしい道よのう。」どこまでも強がりで誇りを失わない上皇は、そのように言いたかったのではないか。出典は『承久兵乱記』である。
みまさかと、はうきのなか山をこえさせ給ふに、むかひのみねにほそみちあり、いつくへかよふみちにとゝはせ給ふに、ふるきみちにて、いまハ人もかよはずと申しけれハ、
みやこ人たれふみそめてかよひけんむかひのみちのなつかしきかな
裏面に刻まれた漢文の引用部にも誤りを見つけた。正しくは「後鳥羽上皇狩於隠岐也自美作入伯耆駐蹕于中山此即是云有御製歌」である。その裏面の篆額「中山」は三浦基次子爵によるもので、三浦子爵家は、かつてこの地を治めた美作勝山藩主であった。ただ、子爵のご先祖だとされる三浦義村は、承久の乱で鎌倉方の主力となり、上皇方を打ち破った御家人である。
後鳥羽公園の入口近くに「硯岩(すずりいわ)」がある。
硯にしては巨大だが、ミニチュアにすると硯に見えなくもない。苔むしたこの岩が後鳥羽上皇ゆかりだという。説明板を読んでみよう。
硯岩
後鳥羽上皇は、隠岐島へ遷幸のとき、やがて伯耆国へ入るというこの地で、都から遠ざかるという感慨ひとしおとなられ、詩情をもよをされました。墨を要求されましたがなく供の者は硯に使えるこの岩を見つけて、墨をすり、それを持って供しました。やがて向いの峰の見える小高い場所でご休息され、御歌をよまれました。その時、この岩ですった墨の汁をお使いになった、ということです。
この岩ですった墨で「みやこ人」の歌を詠まれたのであろう。後鳥羽公園というだけあって、上皇ゆかりの場所が点在し、テーマパークのような回遊性がある。なんと命ある植物にも、上皇が奇瑞を起こしたという。
出雲街道から歌碑に続く遊歩道入口近くに「枝垂栗(しだれぐり)自生地」があり、県の天然記念物に指定されている。説明板を読んでみよう。
しだれ栗り
岡山県の天然記念物に指定されている。
実は小さくて、実用価値はないが、長野県と岐阜県にしかない珍らしいものである。
承久の乱(一、二二一年)により、後鳥羽上皇は隠岐島へ配流となりここを通られた。
その時食事をされて、栗の木の箸を逆さにたてられたら、それがしだれ栗となったという伝説がある。
新庄村教育委員会
栗の木は耐久性があり、家の柱や枕木に使われており、もちろん箸にも加工されている。私の箸は黒くて硬く何年使っても傷まないが、栗の木ではなさそうだ。説明板に記されている箸立伝説は、このブログでも「箸立伝説と挿し木の近しい関係」で紹介したことがある。場所は同じく出雲街道沿いであった。
出雲街道から歌碑に続く遊歩道を少し進むと「御水池」がある。ここは後鳥羽上皇の先例に倣って隠岐配流となった後醍醐天皇ゆかりの地である。
御水池
元弘二年(一、三三三年)に、後醍醐天皇は隠岐島へ配流となりここを通られた。
天皇は約百年前に通られた後鳥羽上皇のことを偲ばれてこの水を使われたのである。
その時、
伝え聞く昔語りぞうかりけり
そのえふりぬるみか月の森
と、御歌をよまれたという。
また、松江城主松平侯は参勤交代のとき、この水はよいので、江戸までもっていったという話もある。
新庄村教育委員会
ここから山陰に入るまでには、嵐ヶ乢(あらせがたわ)と四十曲峠という難所が待ち構えている。ここで休息して息を整えてから、急坂をのぼったのだろう。松江藩の松平侯にとっては、難所を越えた安堵感に浸る場所だったのかもしれない。「江戸の者にも美味い水を飲ませてやろうぞ」と汲んで持ち運んだのだろうか。
後醍醐天皇は都に帰還できたが、後鳥羽上皇は隠岐を脱出できなかった。我こそは新島守よ、と高らかに詠うくらいだから、環境が変化しても適応できる強い人だったのだろう。しかし本当は山深いこの場所で、『真庭郡誌』の伝えるように御落涙遊ばしていたのかもしれない。
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