『それから』が森田芳光監督によって映画化された時、本気で夏目漱石を読もうかと思った。三千代役の藤谷美和子さんがセピア色に写るポスターが、ノスタルジックで切ない雰囲気をよく表していたのを憶えている。
しかし実際には、映画も見なかったし小説も読んでいない。読んだ漱石作品は『坊っちゃん』程度で、ほとんど知識がない。ただ、松山土産に坊ちゃん団子をいただいたことがあるから、松山ゆかりぞなもし、くらいには知っている。
その漱石先生が来岡されていたと聞いて驚いた。
岡山市北区内山下二丁目に「夏目漱石句碑」がある。猫が日向ぼっこをしている。とはいえ、残暑厳しい時季だったから、さわると火傷するくらい熱かっただろう。
岡山は漱石門下の内田百閒のふるさとだから、その関係で漱石が来訪したのだろうか。二人の出会いは明治44年、東大生の百閒が病気療養中の漱石を見舞った時のことである。この句も、漱石の病気に関係があるようだ。説明板を読んでみよう。
「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉(あかとんぼ)」
夏目漱石は、明治43年6月上旬、小説『門』の脱稿前後、継続する胃の痛みを胃潰瘍(かいよう)と診断され入院しました。7月末に退院し、門下の松根東洋城(まつねとうようじょう)の勧めで、8月6日から修善寺温泉の旅館「菊屋」に転地療養に出掛けました。しかし、退院後も胃痙攣(けいれん)は続き、8月24日夕刻から急変。胃潰瘍による大量吐血で、一時、生死の境を彷徨(さまよ)いました(修善寺の大患)。
この句は、辛うじて回復した漱石が、9月24日、世話になった周囲の人々に感謝しながら、無数の赤蜻蛉が飛び交うどこまでも高い秋の空を眼にし、しみじみと生きている感慨を詠んだ句です。
修善寺の大患を越えた漱石が、赤蜻蛉に生きる喜びを感じている。志賀直哉『城の崎にて』もそうだが、死ぬかのような経験が、小動物の命に対する関心を抱かせるのであろうか。ただこの句は修善寺で詠んだもので、岡山とは直接関係がありそうにない。では、漱石が来岡したのはいつのことか。もう一つの説明板を読んでみよう。
夏目漱石の岡山逗留
~当家は旭川に臨み前に三櫂山(みかいやま、操山)を控へ東南に京橋を望み~
(明治25年7月19日付、子規宛漱石書簡に描かれた片岡家からの眺望)
夏目家の縁戚、臼井家を継いだ直則(漱石実兄栄之助)が若くして亡くなった時、妻の小勝(かつ)は、実弟の亀太郎に臼井を継がせてから、実家の片岡家に戻り再婚しました。漱石は、片岡家に夏目家の祝意を伝えるため、明治25年7月7日、帝国大学の学年末試験終了直後、神戸まで学友正岡子規と同行で、岡山に向かいました。
11日から、旭川西河畔の内山下138番邸、片岡家(案内板設置場所近傍)に逗留した漱石は、16日より、三泊四日で、小勝の再婚先、金田村(現・岡山市東区金田)の岸本家を訪ね、大いに歓待されました。17日には、地元の漁師の舟で、児島湾を周遊し、鳩島にも上陸しました。
19日、漱石は、落第で退学を決意した子規に翻意を促す手紙を書き、岡山に残した唯一の句を添えました。
「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」
(満月は卒業、ほととぎすは子規のこと)
23日、暴風雨で旭川が氾濫し、夜半、大洪水になると、漱石は、天神山に逃げ、旧知の光藤(みつとう)亀吉別邸で8日間の避難生活を送りました。
8月10日、楽しみにしていた閑谷黌(しずたにこう、閑谷学校)見学は断念、岡山を離れて松山の子規のもとへ出発しました。
岡山市
漱石が東大生だった明治25年のことである。句碑近くにあった義姉の実家に逗留し、その再婚先にも行って、ずいぶんと楽しんだようだ。そして漱石唯一となる岡山ゆかりの作品を残した。それは「正岡子規くん、あきらめるんじゃない。卒業したまえ!」というメッセージの句であった。
楽しいことばかりではない。岡山では災害にも遭遇している。台風による大雨で、旭川の堤防が石関町と下出石町において決壊、市街地を大洪水が襲う。漱石も被災者となって避難生活を余儀なくされる。たいへんな経験だったと思われるが、後の漱石作品のモチーフになることはなかったようだ。
ところで、猫についての説明が一切ないが、どういうことだろうか。義姉の片岡家の飼っていた猫なのか。近所の野良猫なのか。それとも「吾輩は猫である」と名乗った猫なのか。吾輩は漱石である。猫ではない。吾輩は岡山で初めて洪水というものを経験した。しかもあとで聞くとそれは岡山の歴史では繰り返し発生している災害であったそうだ。
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