突発した国難に際して首相がどのような対応をするのか、歴史が厳しい目を注いでいる。コロナ禍の安倍首相、東日本大震災の菅首相、えひめ丸事故の森首相、阪神大震災の村山首相。突然到来した危機に困惑し、判断に迷ってうろたえたことだろう。もちろんリーダーシップが必要だ。だが、その指導が解決の最適解かどうかは後になってみないと分からない。歴史に評価される立場の気苦労はいかばかりか。
戦前日本のターニングポイントとなった満州事変に際して、時の首相はどのような対応をしたのだろうか。
松江市殿町の島根県庁前に「若槻礼次郎像」がある。南方の床几山にあった銅像は戦時に供出の憂目にあったため、昭和37年に場所を移して再建された。
島根県は二人の偉大な内閣総理大臣を輩出している。昭和改元時の若槻礼次郎、平成改元時の竹下登である。激動の昭和の幕開けを担った第一次若槻内閣は金融恐慌の対応で苦労した挙句に総辞職に追い込まれた。第二次若槻内閣は満州事変の処理に苦労した挙句に総辞職している。
地元の人はどのように評価したのか。戦前の銅像にあった顕彰文が、今も残されているので読んでみよう。
閣下生我郷幼学雑賀黌長入帝国大学釈褐大蔵省累進大臣遂為台閣首班又以首席全権大使列倫敦会議依功授男爵如閣下実可謂一代偉人也於是有志相謀建立此像使人有所欽仰感奮焉
昭和九年六月吉辰
渡部寛一郎撰書
閣下は床几山のふもと雑賀に生まれ、ここで学んだ。大きくなって帝国大学に進み、大蔵省に入って大臣となり、遂には内閣の首班となった。また、首席全権大使としてロンドン会議に出席し、その功によって男爵を授かった。閣下のような人物こそ一代の偉人というべきである。ここに有志とともに像を建立し、「尊敬すべき人物だ。自分もやるぞ!」という気持ちになってもらおうと考えたのだ。
渡部寛一郎は若槻の後援会長をしていた教育者である。渡部先生の指摘のとおり、ロンドン海軍軍縮会議に首席全権として参加し見事に条約締結を成し遂げたことが、最大の偉業と言えるだろう。幣原外相のもとで進められていた国際協調路線、その最後の精華であった。昭和五年(1930)4月22日のことである。
その後、狙撃事件に倒れた濱口首相に代わり、昭和六年(1931)4月14日に若槻が再び首相となり組閣。大臣は濱口内閣からの留任が多かった。この点、安倍内閣を引き継ぐ菅内閣と似ている。
国際協調の幣原外交は継続していたものの、6月の中村大尉事件(8月公表)、7月の万宝山事件と満州で不穏な事件が相次ぎ、対外強硬が声高に主張されるようになる。これを好機と捉えた関東軍は9月18日、柳条湖で自作自演の爆破事件を起こし、満鉄沿線を占領していった。
この状況を受け若槻内閣は24日、次のような内容の政府声明を発表した。
殊に我国の最緊密なる利害関係を有する満蒙地方に於て最近不快なる事件頻発し竟に我友好公正なる政策も中国側より同一の精神を以て酬ゆる所とならざるが如き印象を我国民一般の心裡に与へ物情騒然たるに当り偶々九月十八日夜半奉天附近に於て中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊し我守備隊を襲撃し之と衝突するに至れり。
こちらは仲良くしようとしているのに、そちらが応じようとしない。しかも今回、おたくの軍隊はうちの鉄道を爆破しましたよね。政府声明では自らの正当性を主張するから、当然このような書きぶりになるだろうが、でっちあげ事件を出発としている点にすべての不幸があった。それでも、次のようにも声明している。
帝国政府は九月十九日緊急閣議を開きて此上事態を拡大せしめざることに極力努むるの方針を決し陸軍大臣より之を満州駐屯軍司令官に訓令せり。
帝国政府が満洲に於て何等の領土的欲望を有せざるは茲に反覆縷説するの要なし。
この方針が貫徹されていたなら、その後の不幸もなかったわけで、惜しんでも余りある政府声明であった。シビリアンコントロールは、すでに末期的な様相を呈していたのである。結局、軍の力を抑え込む挙国一致内閣を組むか否かで混乱を生じ、第二次若槻内閣は総辞職した。
戦争が拡大したのち、若槻元首相は「ああ、あの時もっと強く主張していれば…」と思ったか、それとも「あの時は、あのようにせざるを得なかったのだ」と思ったか。おそらくは、その両方が交互に頭をもたげてきたのではないか。リーダーは常にギリギリのところで判断しているのだ。
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