桜内義雄という外務大臣を憶えている。チェリー発言ばかりが面白おかしく伝えられているが、国連で核軍縮を強く訴えるなど平和外交に徹した人であった。明治生まれ最後の国会議員の一人(もう一人は原健三郎)でもあった。
月山富田城を散策していると、その桜内外相とよく似た名前の政治家に出会った。調べてみれば、やはりお父さん。しかも大物政治家であった。
安来市広瀬町富田の月山富田城跡、千畳平の入口に「櫻内幸雄君誕生地」の石碑がある。裏面に「昭和十八年十月 櫻内先生頌徳會建之」とあるが、『出雲富田城史』によれば、実際に建てられたのは昭和二十八年だという。
題額は清浦奎吾伯爵である。伯爵は前年に亡くなっているから、頌徳碑は早くから計画されていたのだろう。寿像は内藤伸、高村光雲に学んだ島根県出身の彫刻家である。撰文は徳富蘇峰先生だが、よく読めない。
ここでは、桜内氏が米内光政内閣に入閣した時のようすを紹介しよう。
桜内氏が商相および農相として経済問題に対する手腕はすでに定評があるが、ここに一躍大蔵大臣として非常時財政を双肩に担い桜内財政を新しく打ち樹てることとなったのは氏としてもまことに本懐のことであろう
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・大阪朝日新聞(昭和15.1.16)政治(60-089)
海軍の良識であった米内光政の内閣は、立憲民政党と立憲政友会それぞれから二人の閣僚を据えるバランス感があり、天皇の全幅の信任を得ていた。桜内は民政党において、総裁後継者とも目される重鎮であった。
ところが米内内閣は、枢軸国優勢の欧州情勢に伴う世論と陸軍の意向によって葬られてしまった。半年しか続かなかった米内内閣で桜内蔵相に何ができただろうか。日中戦争解決の見通しはまったく持てず、経済統制を続ける以外に大蔵大臣が打つ手はなかった。
桜内は二・二六事件に倒れた高橋是清(その後任の町田忠治)以来久々の政治家の大臣であり、桜内の前も後も新憲法下に至るまで官僚か財界の出身者が大臣に就いていた。つまり政党政治家の大蔵大臣としては、旧憲法下最後であった。
とはいえ、近衛文麿の新体制運動が盛り上がると、桜内は永井柳太郎とともにこれに同調し、民政党解党に主導的な役割を果たした。時局を乗り切るためナチスのような強力新党を結成し、政治の主導権を握ろうとしたものの、結果的には軍部を利することにしかならなかった。
この時代もそうだったが、いま世界は民主主義と専制主義の対立が激しくなっている。二つの主義の違いは、トップの悪口が言えるかどうか、つまり言論の自由の存在だ。世界的には日米欧と中露という枠組で冷戦以来大きくは変わっていない。
国内で対立が激しくなっているのはミャンマーだ。民主派は国軍の統治を拒否して臨時政府(挙国一致政府)を樹立した。日本政府は軍政を非難しているが、臨時政府にはどう向き合うのか。専制主義国家の中国が軍政を黙認することで影響力を強めようとしている。専制日本が目指した大東亜共栄圏の盟主は中国になるのだろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。