子どもたちが楽しく活動するキャンプ場に、戦国武将が腹を掻き切ったという岩がある。生と死のあまりにも分かりやすい対比。これを大きなギャップととるか、生死は表裏一体と悟るか。いずれにしろ、子どもらにとっては怪談以外の何ものでもないだろう。
島根県邑智郡邑南町阿須那の軍原(いくさばら)キャンプ場に「伝承 腹切り岩」がある。川岸の崖に取り付けられた歩道を通ってたどりつく秘境のキャンプ場だ。
「いくさばら」の「腹切り岩」。平和なキャンプ場で考える戦争の悲惨さ。いったいどのようなドラマがあったのだろうか。標柱には次のように記されていた。
享禄三年十二月四日藤掛城主高橋興光は、毛利元就の謀略の手先となった鷲影城主高橋弾正盛光に、ここ軍原で襲撃され、寡兵にて奮戦するも終に敗れ、興光はこの大岩に上り腹かき切って果てたと伝えられている。享年二七歳。
享禄三年とは1530年。畿内では細川晴元政権に対し、同じ京兆家の高国が政権奪回をかけて挑んでいた。関東では新興の北条氏綱が名門の扇谷上杉家と争っていた。中国では二大勢力大内氏と尼子氏の狭間で、毛利元就が着実に勢力を拡大していた。織田信長がまだ、この世に生を受けていなかった頃である。
毛利元就の兄興元は高橋氏から正室を迎え、幸松丸を儲けていた。興元が急逝し幼い幸松丸が家督を継ぐと外祖父の高橋久光が後見人となった。その久光が大永元年(1521)に戦死、同3年(1523)に幸松丸も夭逝、元就が家督を相続した。
そのころ元就は大内氏についていたが、高橋氏は大内氏を離れ尼子経久の三男塩冶興久に接近した。このため元就は大内氏の支援を受け、高橋弘厚(久光の子)の松尾城を攻め落とした。享禄二年(1529)のことであった。
邑南町木須田に「高橋興光公墓」がある。興光は弘厚の子である。
墓石には「藤掛城主 高橋大九郎興光之墓 享禄二年五月二日」と刻まれており、藤掛城が山上にある。この城は松尾城と並ぶ高橋氏の本拠であった。
ただし安芸高田市歴史民俗博物館『芸石国人高橋一族の興亡』所収「高橋氏の滅亡時期をめぐって」によれば、「享禄二年」ではなく「三年」が正しいらしい。しかも毛利氏は藤掛城を武力で攻め落としたのではなく、交渉により大九郎興光を切腹させることで決着をつけたということだ。これには史料的な裏付けがある。
ということは、興光が軍原で一族の盛光に襲撃され腹切り岩で自害した、という話はどうも怪しい。面白おかしく書かれた軍記物に由来するのだろう。おどろおどろしく思えた軍原キャンプ場は、青少年の健全育成にふさわしい平和な場所だったのだ。
大きな岩を人は放っておけない。何らかの物語を作ってしまう。それを聞いたら、そうとしか思えなくなる。腹切り岩に残るシミは血の痕だと言われたら、そんな気がするだろう。人はすべてのことに意味を見出したいのだ。
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