幼い子供の死ほど悲しいものはない。歴史上もかなり多くの子供が亡くなっているはずだが、現代まで伝わらない場合がほとんどだ。それでも貴人なら悲話として語り伝えられる。「波の下にも都がございますよ」安徳天皇は二位の尼に抱かれて入水して果てるのである。
今日は、そこまで有名ではないが、毛利元就の先代である毛利家の幼主の哀話を紹介しよう。
安芸高田市吉田町吉田の毛利元就墓所の手前に元就の兄、甥、長男の妻、そして先祖の墓がある。
ここは元就の墓の手前で菩提寺の洞春寺跡である。元就に先立って亡くなった隆元も墓があるが、夫人の墓とは少し距離がある。隆元夫人は大内氏の家臣内藤氏の出身である。父の興盛はフランシスコ・ザビエルを山口に招くなど視野の広い教養人であった。
先祖については「空前絶後の武将、毛利元就」で触れている。本姓大江氏という日本有数の名門である。興元(おきもと)は元就の兄である。父弘元の隠居に伴い8歳で毛利家の当主となり、安芸国人一揆を主導して地盤を固めた。しかし、永正13年(1516)に酒が祟ったのか24歳で急逝する。
そして後を継いだのが、わずか2歳の幸松丸である。母の父高橋久光と父の弟毛利元就が後見人となったが、久光の死後は元就が実権を握った。
幸松丸が9歳の時、大永三年(1523)6月、尼子氏に与していた毛利氏は、大内氏の勢力下にあった安芸西条の鏡山城(東広島市鏡山二丁目、国史跡)を攻めた。城を守るは蔵田房信とその叔父直信である。寄せ手の毛利勢は、幸松丸の後見役の元就が陣頭指揮を執る。
元就は直信を家督継承を好餌に寝返らせ鏡山城を落とした。房信は自害し、元就は勇名を馳せた。そこまではよかったが、房信の首を実検した時に悲劇は起きた。『本朝武家高名記』武将伝巻之三「毛利大江元就素性附武略之事」の一節である。
然(シカル)ニ舎兄(シャキョウ)興元早世シ、子息幸松丸(コウマツマル)七歳ノ時、安藝国最上(サイジヤウ)鏡山(カガミヤマ)ノ城主倉田(クラタ)備中守近則(チカノリ)ト軍(イクサ)シテ、忽(タチマチ)勝利ヲ得テ、近則ガ首實檢(クビジツケン)ニ入ル。七歳ノ幼将(ヨウシヤウ)ニ一ツ首實檢ハ如何(イカン)ト怪(アヤシム)處ニ、案ノ如ク彼ノ首瞳ヲ動シ、三度齒ヲ咬鳴(カミナラ)ス。爰(ココ)ニ於テ、幸松丸戰慄驚動(センリツキヤウドウ)シテ、終(ツイ)ニ卒去(ソツキヨ)セリ。
名前や年齢が異なるところはあるが、幸松丸が生首を見て卒倒したことが描かれている。ただ、元禄期に刊行された『本朝武家高名記』には、軍記物にありがちな誇張が含まれているので、額面通りには受け取れない。落城が6月28日、幸松丸の死が7月15日である。戦い直後に亡くなったことからの創作だろう。
いくら武家に生まれたからと言って、9歳の子に生首を見せるのは酷だ。しかもである。生首が瞳を動かし歯を三度噛み鳴らしたのだ。どんな大人でも戦慄驚動し、一生のトラウマになるだろう。
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