偉大な親と凡庸な息子は、政治や芸能の世界にはよくある組合せだ。ついつい比較の対象となって息子はプレッシャーの中で足掻くことが多い。足利義持は父義満の政策にあからさまな反発を示したし、長嶋一茂もミスター2世としてずいぶん苦労した。
安芸高田市吉田町吉田に「毛利隆元墓所」がある。
毛利隆元は元就の長男である。墓碑には「大膳大夫従四位下大江隆元朝臣之墓」と刻まれている。隆元の官位は従四位下大膳大夫であるが、手前の石碑によると、明治41年4月2日に正三位を追贈されている。同じ日付で父元就は正一位を贈られた。
大友氏との和議を成立させた隆元は、遠征先の防府から出雲攻めの父元就に加勢するため、永禄6年(1563)7月10日に多治比(安芸高田市吉田町多治比)まで戻った。この地で隆元は、郡山城から子の幸鶴丸(11歳、後の輝元)を呼び寄せて対面した。よもやこの対面が今生の別れとなろうとは。
12日に多治比を発って佐々部(安芸高田市高宮町佐々部)に到り、式敷(しきじき)の蓮華寺にしばらく滞在し、軍勢を整えたうえで8月5日に出発することとした。
3日、和智誠春(わちまさはる)に招かれ仁後城(安芸高田市高宮町船木)で饗応を受けた。隆元の妻と誠春の子の妻は姉妹という関係にあったという。ところが、隆元は宿に戻ってから急に体調を崩し、翌朝に急逝してしまう。享年四十一。父に先立つこと8年である。
隆元の遺骸は蓮華寺で荼毘に付されたが、その地は「毛利隆元逝去の地」として安芸高田市指定の史跡となっている。
気になるのは死因だが、急性心不全か食中毒か、それとも毒殺か、今となっては不明である。
元就は悲嘆にくれ、和智誠春や隆元側近の赤川元保に疑いを持ち、これを誅殺する。ところが、誠春の子元郷は起請文(毛利家文書241号)を提出して元就への忠誠を誓い、元保は饗応に行くのを制止していたことが判明するなど、和智氏も赤川氏も存続が認められている。元就も過剰な対応を反省したようだ。
現在の墓所は隆元300回忌の文久二年(1862)に整備されたものである。さて、昨年2013年は隆元没後450年であった。これを記念して安芸高田市歴史民俗博物館で「毛利隆元 名将の子の生涯と死をめぐって」という特別展が開催された。隆元の功績、人間性のみならず死の謎にまで迫る秀逸な展覧会であった。
展示品の中で特に興味を抱いたのが、隆元が父元就をどのように思っていたのかを示す史料である。毛利元就自筆書状(毛利家文書762号)である。隆元が信頼を寄せていた竺雲恵心(じくうんえしん)禅師に心情を打ち明けた手紙である。特別展図録に翻刻と分かりやすい訳文が掲載されている。手紙には関係ないが、あの安国寺恵瓊は禅師の弟子である。
近比惶多申事ニ候へ共、元就事ハ中国諸人知身儀候間、如此愚身か事為可申、名将之號述候、御一見已後火中/\、此切かミをハ、
名将の子ニハ必不運之者カ生候と申候事、存知当候、不劣連続之儀、更希有儀候、一度ハ栄一度衰世習、是又存知当候、
はなはだおそれ多いことですが、元就は中国地方の人々に知れ渡っていますので、このように愚かな私のことを申すため、父を「名将」と述べました。御覧になりましたら、この切紙(手紙)を火の中に入れてください。
名将の子には必ず不運な者が生まれると申しますが、私には思い当たります。(名将の父に)劣らぬ子が続くことはまったく稀なことです。一度は栄え、一度は衰えるという世の習いは、これまた存じ当たります。
焼却処分してほしいという隆元の願いを知りながら、禅師は書状を保管し、隆元の没後父元就に届けた。元就は泣きながら書状を読んだという。
「そうであったか」親として己の不明を恥じた元就は、隆元の愛息幸鶴丸(輝元)の成長をサポートすることで、隆元の思いに応えようとする。毛利両川(吉川元春、小早川隆景)に福原貞俊、口羽通良を加え、四人衆として集団指導体制を整え、自らの死後に備えたのであった。
その後、毛利輝元が西国の太守として活躍したのは御存知のとおりである。大河ドラマでも元春、隆景が官兵衛と駆引きをしながら、輝元を盛り立てている。自分の力量に不安を抱いていた隆元も泉下で安心したことだろう。やはり父元就は名将であった。
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