大洋ホエールズという地味な球団があった。カミソリシュートの平松政次を擁して強敵巨人を苦しめていた。オレンジと緑の湘南カラーのユニフォームが懐かしい。今のベイスターズの源流である。親会社は大洋漁業、ホエールズとはクジラのことだ。
クジラといえば給食に出ていた竜田揚げである。今から思えば筋っぽい肉だが確かにうまかった。今日は捕鯨業の雄、大洋漁業の創業者の話である。
明石市明石公園の公園入口に「中部幾次郎翁銅像」がある。
慶応二年(1866)に現在の明石市本町(旧東魚町)に生まれた中部幾次郎は、近代日本の水産業の発展に多大な貢献をした。地元明石でも、旧制明石中学校(現在の明石高校)の建設にあたり、経費の半額を寄付している。
明石中学といえば、昭和8年の甲子園で中京商業との間に延長25回という死闘の末に敗れたのが有名だ。もっとも先月31日に軟式野球で延長50回(中京高対崇徳高)というとてつもない試合があった。
ともあれ中部幾次郎は明石の誇りだから、その功績をたたえて昭和3年11月に銅像が建設された。初代の像は戦中の金属供出で失われ、現在の像は昭和26年の再建である。
幾次郎は父の鮮魚仲買運搬業を継ぎ、林兼商店、大洋漁業として大躍進させた。その後マルハ、現在はマルハニチロとなっている大企業の生みの親である。
中部家は明石郡林村の出身で屋号を「林屋」、当主が林屋兼松と名乗るようになってからは「林兼」とした。市場で使ったマークが丸に「は」であったことから、おなじみの商標「まるは」が誕生したのだ。湘南カラーのホエールズユニフォームにも付けられていた。
幾次郎の業績で特筆されるのは、明治38年に日本初の発動機付鮮魚運搬船「新生丸」を就航させ、鮮度の良い商品を市場に持ち込むことに成功したことだ。そして、昭和11年には捕鯨母船「日新丸」で南氷洋捕鯨に進出する。ホエールズの源流がここにある。北垣恭次郎『近代日本文化恩人と偉業』(昭16、明治図書)を読んでみよう。
中部社長は之(引用者注:ライバル日魯漁業の企業合併)を機として南氷洋進出を断行することゝし、昭和十一年二月我が国最大の捕鯨母船(鯨工船ともいふ)日新丸(約二万二千噸)を神戸の川崎造船所に起工させ、捕鯨船(キャッチャー)八隻を大阪の藤永田造船所に建造させることにした。
かくて是等の船の竣工を待ち、南征準備を整へた上、同年十月七日新装の日新丸は社長の三男利三郎氏(林兼商店の常務取締役)を隊長とし、八隻の捕鯨船を率ゐて勇ましく神戸港出航、十一月十三日南氷洋の漁場に到着した。其の後捕鯨船八隻が一漁期に捕獲した鯨の数は一一一六頭。之を日新丸に移して鯨油一五、二八〇頓を造ったが、鯨油は諸威(ノルウェー)の油艙船に積替へて直接欧州に送った上、帰航の途に就き、翌十二年四月廿二日下関に帰着して凱歌をあげた。
鯨油を欧州に送って下関に帰着している。この頃は冷凍技術の未発達により、鯨肉よりも鯨油を得ることが主目的だった。下関に帰着したのは、中部幾次郎は明治37年に本拠を明石から下関に移していたからだ。以来下関は林兼商店、大洋漁業の企業城下町として栄えてきた。
昭和24年までは下関に大洋漁業本社が置かれ、昭和25年に発足した大洋ホエールズは、27年まで下関球場をホームグラウンドにしていた。引用文に登場した中部利三郎氏は下関商工会議所の会頭を務めた。
このように中部幾次郎とその一族はクジラに力を入れホエールズを育てた。大洋ホエールズの球団旗には昭和52年までは「まるは」マークがデザインされ、「大洋ホエールズ」の球団名は平成4年まで使用された。大洋漁業が平成5年に商号変更したマルハは、平成14年にベイスターズの経営からも撤退した。
こうして竜田揚げのクジラとまるはマークの大洋漁業と湘南カラーのホエールズの歴史は、昭和の古き良き思い出として記憶される。その恩人は誰あろう、明石駅前に立つ中部幾次郎翁その人であった。
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