天下人のうち、徳川一族が松平家も含めて最も栄えた。そりゃそうだ。二百数十年の長きにわたって日本を治めたのだから。豊臣一族では備中足守と豊後日出で大名となった木下家が知られる。織田一族はどうだろう。
フィギュアスケートの織田信成は信長から17代目である。信長の七男信高の子孫が旗本高家として続いており、その流れを汲むという。大名では出羽天童と丹波柏原の2家がある。その他にも旗本や大名の家臣となった家があり、信長以外は地味だが、栄えた一族と言える。
明石市大明石町二丁目に「織田家長屋門」がある。
織田は「おた」と濁らずに読むようだが、やはり尾張織田一族である。明石藩の家老を務めた家である。説明板を読んでみよう。
この附近は、明石藩築城の当時から歴代家老・重臣が住んでいた屋敷跡である。
門は、船上城(ふなげじょう)から移築されたものという。
建築は、江戸時代初期のもの。門の止め金は、室町後期の様式を伝えている。
明石藩の家老屋敷はこの辺りにあったが、太平洋戦争の空襲で焼け、唯一残ったのがこの門だという。船上城(明石市新明町)には天正13年(1585)から2年間、高山右近が在城していた。門に使用されている太鼓鋲、蝶番、飾り金具が室町後期の様式というが、この点については説明できる知識を持ち合わせていない。
元和三年(1617)に大藩姫路藩池田氏が転封されたことに伴い、小笠原忠真が明石藩を興し、船上城へ入った。元和五年(1619)に明石城を築き移転した。これと同じくして長屋門も移築されたものと考えられている。
明石藩の家老織田家は、織田信長の叔父犬山城主織田信康を祖とする。信康の子信清は信長に敵対して敗れ、その子津田信益は信長、秀吉、晩年は福井藩に仕えた。津田姓は織田氏の庶流が名乗ったという。徳川に対する松平のようなものだ。
信益の子信勝は初代大野藩主松平直良に仕えた。直良の子直明が明石藩に移封され、織田家もともに移ってきたわけだ。瓦に描かれた家紋は丸に山の字である。
明石の織田家は信長に直接つながらないものの、一族であることは確かだ。尾張織田一族、なかなか生きる力はあるようだ。
イモトさま
コメントありがとうございます。
きっと由緒ある名字だと思います。
投稿情報: 玉山 | 2022/01/27 21:51
僕の旧姓は於田だが、明石には何人かいる。織田家とは関係があるのかな。
投稿情報: イモトモトヨシ | 2022/01/27 10:12