明石といえば東経135度で知られており、市内各地に日時計がたくさんある。日本標準時子午線の通過する明石の日時計は日本で最も正確?なのである。明石ロータリークラブが明石公園内に昭和45年に設置した日時計も、槍先で時を示しつつ知的で美しい風景を演出している。
明石市明石公園に「明石城跡」がある。国指定の史跡である。
駅から城が見えるとうれしくなる。姫路駅ではビルの隙間から姫路城が見える場所に「お城が見えます」と親切に示してある。明石駅では遮るものがないので見事な明石城が見えるのだが、天守が二つあるような、ないような。
実は天守閣は存在しない。正面左手は坤(ひつじさる)櫓、南西の方角を昔は坤と言った。右手は巽(たつみ)櫓、同じく南東は巽の方角である。本丸から見た方角を示している。また、坤櫓は伏見城の櫓を、巽櫓は船上(ふなげ)城の櫓を移築したものと伝えられている。
では、ここでクイズ。天守閣がないのはどうしてかな?
①江戸時代に雷が落ちて焼けてなくなった。
②明治時代に取り壊されてしまった。
③太平洋戦争の空襲で焼けてしまった。
④はじめから建てられなかった。
①は金沢城、②は津山城、③は名古屋城、④は赤穂城と思いつくままに挙げたが、明石城は④に当てはまる。ただし、天守台だけは下の写真のように造られている。上の地図は天守台の場所を示している。
元和三年(1617)、播磨の太守池田氏の転封に伴い、信濃松本から小笠原忠真が明石に入り、明石藩が成立した。初め船上城(明石市新明町)に入ったが、元和五年(1619)から現在の地で城普請を始め翌年に竣工した。伏見城の廃城も元和五年に決定している。伏見城や船上城の櫓が移されたという説明には妥当性がある。
小笠原忠真が築いたのは城だけではない。明石港は元和七年(1621)3月に着工され、数年を経て竣工した。「西国筋の宝の舟入り」と謳われるほどの賑わいだった。ただ、港口が砂で埋まるので、3月3日の大潮から三日間侍も町人も裸になって鋤簾(じょれん)で砂をかき上げた。小笠原家に伝わる『清流話』には次のように記されている。
明石之船入レ之事、新城ニ被為移、二年目ニ思召立、じねんより、能き船入レに被成候、最前ハ、砂浜ニ而候、明石ハ荒より成るにより、船入レの口へ砂を打込ミ、川口埋ミ候ニ付、毎年三月三日の潮干ニは、右近様、川口へ御出被成、石垣之上ニ畳を御敷かせ御座候被成候而、御家中の侍共、壱人も不残はにかになり、川口より内迄、しょれんを引、町中より茂、門並に人足を出し、しょれんにて陸へ引揚ケたる砂を、浜ニ運ひ捨させ候、右近様も、三日より五日迄ハ、毎日御出被成候、是より、西国筋、宝の船入と申すに成り
引用文中の「右近様」とは右近将監(うこんのじょう)小笠原忠真のことである。殿様自らお出ましになっての一大行事だったようだ。新都市建設の活気が伝わってくるようだ。そして、新都市明石の町割、都市計画をしたのが、かの有名な宮本武蔵であった。武蔵の活躍は次回に述べるであろう。
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