宮本武蔵が人気なのは、その強さはもちろんのこと、「剣禅一如」というべき精神性の高さと、芸術作品に見られる優れた技量による。その芸術の幅は書画にとどまらず作庭にまで及んでいる。本日は武蔵の庭である。
明石市上ノ丸一丁目の本松寺の庭園は宮本武蔵作だと伝わっている。
武蔵と大名の関係といえば、肥後熊本の細川氏の客分となり、『五輪書』等を著したことである。しかし、意外に重要なのが明石藩主小笠原忠真とのつながりである。
養子の宮本伊織を忠真に出仕させ、伊織は忠真の移封先の小倉藩で家老を務めることとなった。島原の乱に際しては武蔵も小笠原勢(忠真の甥長次)について戦った。
さて、本題の明石と武蔵とのつながりである。本松寺に掲げられた説明板が分かりやすいので読んでみよう。
伝「宮本武蔵」作庭
本松寺 庭園
宮本武蔵は、元和四年(一六一八年)明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、同年、明石城の築城が始まると、明石城下の町割を担当するとともに、作庭にもその才を発揮し、明石城の樹木屋敷やこの本松寺の庭園の作庭に当たったと伝えられています。
この庭園は本堂を背に庫裏書院に面した枯池枯山水庭園です。元々は離れ座敷が北側にあり、庭はこの離れ座敷や書院からの視点を考慮して作庭されています。
全体的にみて、石組は小振りであるが、平面構成を重視し、視点による変化を持たせたまとまりのよい庭園です。
本松寺のほか、明石市大観町にある圓珠院の庭園も武蔵の作と伝えられています。
大小の二つの滝石組みが武蔵作の庭に共通しているという。浅い瓢箪型の枯池も印象的だ。本松寺の他には圓珠院(明石市大観町)、福聚院(神戸市西区櫨谷町谷口)がこれに当たる。他には雲晴寺(明石市人丸町)、明石城内の樹木屋敷(現在の陸上競技場、明石城武蔵の庭園は平成15年の開園)が武蔵の作庭と伝わっている。
今年の夏、兵庫県立農業高等学校の造園科の生徒が、研修として明石城武蔵の庭園を見学したという。武蔵の作庭は余興かと思っていたが、見方を改めることとしたい。未来ある若者が武蔵に学び、自らの発想を加えて新しい風景を創り出していくのかと思えば、これからが楽しみに感じられる。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。