水なんてどれも同じ、と思っていたが、先日、ご飯を炊くのに水道水を使ったところ、家族に気付かれてしまった。浄水器の水の方が味がいいらしい。水オンチでよく分からないのだが、ドリップコーヒーならどうだろう。味噌汁なら分かるだろうか。カレーでも違うだろうか。今回は、美味い水を求めてポリタンクを携えた人が集まる名水スポットを訪ねてみた。
明石市人丸町に名水「亀の水」がある。オオカミの口から勢いよく水が出ている。いや失礼、カメの口からでした。写真では写せてないが甲羅があるのだ。ただし、正確には「贔屓(ひいき)」という伝説上の動物ということだ。
播磨は古くから水のおいしい地域のようで、以前に「播磨十水」を紹介したことがある。また、「播磨三名水」というのがあり、「亀の水」はその一つだと、明石市作成の『明石の「たからもの」発掘大作戦』(平成25年1月1日広報あかし特別号)で紹介されている。
ただ不思議なことに、三名水の残りの二つは検索してもヒットしない。三という数字は播磨有数という程度の意味なのか。ま、そんなことはよい。美味しいのは私も飲んで確かめたし、由緒あることは説明板に記してあった。読んでみよう。
この清泉は元和七年(一六二一年)山上の月照寺や人丸社にお詣(まいり)する人々のために湧き出る清水を竹の筒で引き石亀の口より大きな甕(かめ)に受けて諸人の利用に任せたので頗る喜ばれ「名水 亀の水」と称せられました。
只今の手水鉢(てうづばち)(盥漱盤かんそうばん)は享保四年(一七一九年)常陸国(茨城県)の人飯塚宣政(いいづかのぶまさ)氏の寄進によるものです。
飯塚さんは常陸から遠く離れたこの地に、なぜ手水鉢を寄進したのだろうか。神戸新聞明石総局編『あかし昔ばなし』(明石文庫の会)の「亀の水」を読んでみよう。
江戸時代中期の享保四年(一七一九)ごろの話です。江戸の目明しに飯塚宣政(いいづかよしまさ)という人がいました。悪人を追っかけて浪華から播磨までやってきました。しかし、どうしても悪人はつかまりません。苦しい時の神頼みといいますが、飯塚も柿本(かきのもと)神社に参り、「なんとか悪人をつかまえさせてください」と願をかけました。
この願いが聞き届けられたのか、間もなく悪人を捕えることができました。江戸の奉行は大変喜んで「ほうびに日本橋近くの土地をやろう」といいました。飯塚は「捕えることのできたのは、柿本さんのおかげです。ほうびのかわりに悪人の罪を一等減らしてやって下さい」と辞退しました。
その年の十二月、飯塚は柿本神社にお礼にやってきました。参道をのぼろうとしてふと見ると、霊泉(れいせん)亀の水をうけているカメが割れていました。「これはあまりにも見すぼらしい。割れない石の手水鉢(ちょうずばち)をお礼に寄進しよう」と、立派な手水鉢をつくって置きました。
この手水鉢はいまも清らかな水を受けています。飯塚の子孫は東京と茨城にいますが、最近、明石を訪れ、先祖をしのんだといいます。
飯塚氏が寄進した手水鉢というのが、下の写真右下に写るものなのだろうか。
江戸時代初期の元和年間から今に至るまで、参詣の人々の喉を潤してきた亀の水。霊験あらたかでしかも美味しい。さすがに播磨三名水の一つである。本当は播磨一の名水と言いたかったのだろうが、少々遠慮して言い表したのであろう。
キファールさま
地元の方から丁寧なコメントをいただき光栄に存じます。たいへん勉強になります。お話をうかがって、ますます不思議に、ますます興味深く思えます。東国と西国のつながり、奥が深そうですね。
投稿情報: 玉山 | 2018/09/25 21:54
はじめまして
管理人さんがしっかり書いてくださっていて感謝します。
小さいころここでスイカを冷やしたりよく遊んでいたものです。
本日(2018.9.25)明石市の文化財課にもお尋ねしましたが、江戸時代の
飯塚さんについては謎が残っているそうです。
つまり喜兵衛さんと宣政さんは同一人ではないらしい。
さらに喜兵衛さんは犯人を明石で捕らえたのではなく、常陸の国のお隣
り磐城の国で捕まえたらしい、とのことです。
どうしてそんな東国の事件が西国の
播磨・明石で記念物としていまもあるのでしょうね?
投稿情報: キファール | 2018/09/25 14:02