甲子園の高校野球で思い切り応援できることが、コロナ禍終息の指標になるだろう。鳴り物があろうが踊りがあろうが、やっぱり声援は応援のスタンダードだ。声が出せないともう一つ調子が出ない。今年の夏はどのような判断がなされるのだろうか。
全国4千を超える参加校のうち、負け知らずは1校のみ。準々決勝くらいからはメディアの扱いが大きくなるが、早くに消え去った学校はすぐに忘れ去られてしまう。戦国甲子園で準優勝だった毛利氏にはインタビューの機会が与えられるが、早い段階で打ち負かされた武将を取材する記者はほとんどいない。
ところが、安芸高田市歴史民俗博物館が令和元年度に開催した企画展は、そんな敗者にスポットを当てる秀逸な展覧会であった。題して『芸石国人高橋一族の興亡』、享禄三年(1530)に地方大会で敗れ去った国人領主である。
安芸高田市美土里町横田に県指定史跡である「松尾城跡」がある。説明板のある麓から見ると普通の山だ。
登山道はよく分からなかったが、とにかく上へ上へと登って広い主郭に着いた。そんなことだから下山の道を見失い、しばらく場内を彷徨する羽目になる。下に向かったとて登山口に出るとは限らない。山の周囲には野生動物の防護柵が設けられており、開閉できるのは1か所しかないのだ。さすがは難攻不落の城である。説明板を読んでみよう。
広島県史跡
松尾城跡
所在地 安芸高田市美土里町横田
指定年月日 平成十九年四月十九日
この松尾城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、安芸・石見の両国にまたがって広大な領域を支配した国人領主、高橋氏の安芸国側の居城として構築した本格的な山城である。南北朝時代末期から室町時代初期に築城されたと推定され、享禄二年(一五二九年)大内氏や毛利氏の連合軍によって落城した。
城跡は、横田盆地北側にそびえる大狩山から南へ伸びた尾根上にある。比高約一五〇メートルの最高所から東の尾根筋に郭(くるわ)を並べ、東・北・南の尾根続きに堀切(ほりきり)、 南北両側斜面に竪堀(たてぼり)を配置し、高い切岸(きりぎし)、明瞭な通路を有する加工度の極めて高いものである。
広島県地域の中世政治史を語る上で欠かせない城跡で、全国的にみても現地に残る遺構の年代が判明する貴重な事例である。
平成十九年四月十九日 安芸高田市教育委員会
下山道を探して迷いながら、この高い切岸を何度か上り下りした。
削平地は広く、その裾は急峻。戦国末期の枡形虎口や畝状竪堀群のような技巧的な施設はないが、かなりの土木事業だったことが分かる。芸石国境は尼子氏と毛利氏の草刈り場というイメージが強いが、両者が台頭する前は高橋氏が最大勢力だったのだ。
この石見高橋氏の先祖に高橋師光という武将がおり、北朝幕府に反抗する足利の異端児、直冬を支えるほどの力があった。以前の記事「『天下墓』に眠るのは」で紹介したように、最後の将軍義昭というより直冬ゆかりと考えられる古墓は、ちょうど芸石国境に位置しているのだ。「南北朝時代末期から室町時代初期に築城された」という松尾城は、高橋氏の実力の象徴といえるだろう。
戦国の緒戦で敗れ去り人々の記憶にも残らなかった高橋氏。その記録を丁寧に紹介した安芸高田市歴史民俗博物館に敬意を表したい。コロナ禍で様々な制約を強いられながら甲子園を目指している球児が全国にいる。報道もされない地方試合にもキラリと光る何かがあるはずだ。
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