播美国境をいかに越えるか。今も主要ルートは二手に分かれている。一つは太平記の故事で有名な杉坂峠で、中国自動車道が通過する。もう一つは江戸時代になって開かれたという万能乢で、国道179号とJR姫新線が通過する。二つの峠の違いを簡単に説明すると、杉坂峠ルートは距離が短いものの坂は急であるのに対し、万能乢ルートは距離が長いものの坂は緩やか、ということになる。
一説(津山郷土博物館だよりNo.14湊哲夫「杉坂峠か万能乢か」1995.10)によれば、古墳時代の道は杉坂峠、律令国家の古代官道は万能乢、中世は杉坂峠、近世になって再び万能乢が整備され、高速交通時代になって杉坂峠ルートが利用されるようになったという。本日は古代官道、近世街道として利用された万能乢に向かうこととしよう。
美作市土居にJR姫新線の「ずい道西口踏切」がある。
遮断機が下りることのないこの道が、万能乢に向かう出雲街道である。道は手入れされているので歩きやすい。むかしの旅人気分でどんどん進もう。
峠の少し手前に市指定文化財の「梅香塚」がある。正面にそのように彫ってあるのだが読み取りにくい。
美作の最も東に位置するこの場所に、かつて作東町という自治体があった。バレンタインパーク作東という西洋風の御伽の国があることで知られているが、江戸時代には文芸活動が盛んで、今の「プレバト!!」の俳句コーナーみたいなことをやっていたのか、秀句がたくさん残されている。
その俳壇で永世名人のような立ち位置にあったのが妹尾有磯という人で、師匠と仰ぐ夏井いつき先生ならぬ松尾芭蕉大先生の記念碑を建てたのだという。説明板を読んでみよう。
作東町指定文化財
梅か香塚
指定 昭和五七年十二月一日
この句碑は寛政五年(一七九三)に、当地土居の俳人妹尾有磯が近在の俳人によびかけて、俳聖松尾芭蕉の百回忌の記念に建立したものである。句碑には、「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」の句が刻まれているが、芭蕉のこの句は元禄七年(一六九四)に刊行された連歌集「炭俵」の巻頭の句として有名である。出雲街道の、この辺は「万の乢」(まんのたわ)として山路の景色の美しさは当時の往来の旅人に宣伝されていた。この句には、次の様に下句ついて、連歌となっている。
むめが香にのっと日の出る山路かな(芭蕉)
ところどころに雉(きじ)の鳴きたつ(野坡)≪野坡(やば)も当時の有名俳人≫
江戸の頃の人たちの、自然を愛し、文を愛した心ばえのしのばれる「作州」の誇りにすべき句碑である。
峠に心動かされない旅人はいない。「あと少しだ」とか「やっと越えたぞ」とか、そんな動く心に染み入るのが万の乢の美観であり芭蕉の文学碑だったのだろう。碑に刻まれた芭蕉の名句がこれだ。
上五の「む」、中七の「の」、下五の「山」は判読できるが、他は読みづらい。ここで一服して街道に戻れば、峠の頂はもう見えている。落ち葉を踏みしめて登っていこう。
岡山県美作市土居と兵庫県佐用郡佐用町西大畠の境に本日のゴール「万能乢」がある。写真は美作から播磨を見ている。
左側の木製標柱には「萬ノ乢 左作州津山江八里 右播州姫路江十五里」、右側の小さな案内標識には「出雲街道土居宿 万の乢(播美国境)」と示されている。今でこそ誰もいない出雲街道の万能乢だが、江戸時代にはどれほど多くの人で賑わったことだろう。
先に紹介した説が正しければ、出雲へ向かう古代官人もここを通過したのかもしれない。この峠をどのような思いで通過しただろうか。様々な情念が交錯した峠に、超心理学の実験と同じく乱数発生器を置いておけば、もしかすると平地とは異なる出力データが得られるかもしれない。
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