「春雨じゃ、濡れてまいろう」傘を差し掛ける舞妓に月形半平太が言う。半平太は播州三日月出身で…と聞いたら、そうかなと勘違いするくらいに時代劇に似つかわしい名称の「三日月藩」。かっこいいのは藩名だけではない。この堂々とした建物を見よ。訪れたのは春雨の時季ではなく晩秋、秋の名残りの暖かい一日だった。
兵庫県佐用郡佐用町乃井野(のいの)に「三日月藩乃井野陣屋物見櫓」がある。手前の櫓のことだ。
見事な復元である。昭和48年発行『改訂増補 佐用の史跡と伝説』に「乃井野森氏陣屋跡」という写真が掲載されている。現在からは想像できないような水田で、石垣だけが陣屋をしのぶよすがだった。この地に建物がよみがえったのは、平成も半ばの頃である。説明板を読んでみよう。
三日月藩乃井野陣屋物見櫓(三日月町指定有形文化財 建造物 平成14年指定)
この建物は旧陣屋で現存する唯一の建築遺構です。三日月藩の創建当初には無かったことがわかっていますが、建物の創建年代を明確にする史料は発見されていません。江戸時代後期(寛政三年1791)の古文書に「御物見」の記述がありますので、1700年代の後半には建立されていたと考えられています。
櫓(矢倉)とは、敵の襲来を見知したり、矢を射たりして防御性を高める軍事目的の建物でした。しかし、この建物は、堀側に大きな出格子を付け、二階は床(とこ)を設けた書院的な造りで、藩の接待などに使われていました。また、二階からは眼下の武家屋敷や街道が見渡せる絶好の位置で、堀端での武芸の試合を藩主が謁見した記録も残っており、江戸後半期の平和な時代の性格が良く現れています。
明治17年に三日月町の広業小学校に移築され、明治44年に村役場や公民館として再び移築されました。二度の移築にもかかわらず、屋根瓦や建物の一階の柱を除いた主要な構造材、出格子、階段など江戸時代の部材がよく残っていました。この建物は、これらの部材を解体し、現在の位置に復原したものです。
(平成14年3月復原工事完成)
武家屋敷や街道が見渡せたというなら、陣屋町からも物見櫓がよく見えたということだろう。陣屋だから天守ではないが、天守の役割を持つ重要な建物だったのだろう。廃藩後は小学校、村役場、公民館と変遷したようだが、よく残ったものだ。歴史的な建造物を単に保存するのではなく、元の位置に戻すとともに関連の建物まで復原するという心意気に感心させられる。旧三日月町当局に敬意を表したい。
同じく乃井野に「三日月藩乃井野陣屋表門」がある。町指定有形文化財である。
陣屋ではなく城であれば大手門に相当する入口だ。ずいぶん新しいように見受けられるが、どういうことだろうか。説明板を読んでみよう。
三日月藩は元禄10年(1697)、津山藩森家の改易に伴い、初代森長俊が佐用・揖保・宍粟郡の内15,000石の領地を拝領し、乃井野に陣屋を構えたことに始まり、明治4年(1871)の廃藩置県まで、9代175年間続きました。
乃井野には郭内と呼ばれる家臣たちの居住地が広がり、城郭でいう本丸、二の丸、三の丸に相当する多重の構造を持っています。そして、今もその町割が良く残っています。複数の門の内、表門は、お城の大手門にあたる重要な門で、初期には、惣門と呼ばれました。約70年後 (1773)に再建されたのが現在の表門で、脇には番所があり、通行者は厳しく監視されました。
明治9年(1876)、陣屋の土地建物群は払い下げられ(「縣廳乙號布達綴」)、表門は西法寺(現・たつの市新宮町鍛治屋)に移築されたようです。これを、平成28年に町へ寄附を受け、平成29年度に 原位置近くに移築復原を行いました。
2度の移築を経て故地へ戻ってきたこの門は、物見櫓とともに2棟しかない三日月藩の現存建築物です。
お寺の門に転用されていた門が、平成の末になって故地に帰ってきた。物見櫓復原時には「唯一」だった建造物が、これで二つになった。しかも、天守、大手門クラスの重要建造物である。三日月藩一万五千石の栄光が蘇る。
藩主は江戸前期に美作の太守として君臨した森家である。元禄十年(1697)に津山藩主としては改易となったが、西江原(後に赤穂に移封)、三日月、新見(藩主は養子先の関氏)に分封され家名を存続できた。三日月藩主森家二代の長記(ながのり)は「森の夜鷲」の異名をとる性勇猛な人物だったという。
旧三日月藩主家は明治になって子爵を授けられ、森俊成は東京市会議長、貴族院議員となった。その子俊守は治安維持法違反で逮捕されるという異色の経歴を持つ。華族赤化事件、詳しくは述べないが昭和初期ならではの特異な事件である。身分も事件もすべては過去のものとなったが、見事に復原された陣屋跡だけは、三日月藩の栄光を語り伝えている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。