草莽崛起とかインティファーダとか、民衆の力は歴史を動かす。倒幕が短期間のうちに成功したのも、草の根の抵抗運動があったからに他ならない。幕末が政治の季節になったのは、私塾の林立という教育の普及が一因だろう。大都市に限らず地方で暮らす誰もが勉学に励み、世情への関心を高めていた。美作の片隅にも、新しき世を希求する志士が行動を起こしていた。
美作市土居に「安藤鐵馬の碑」がある。記号は男爵平沼騏一郎。昭和十八年に土居村翼賛壮年団によって建立された。命が軽んじられた時代のことである。
最近の若者は政治的な意思表明をしようとしない。5,6年前にはSEALDs(シールズ)という団体が主導して学生運動が復活したかに思えたが、今また誰もが物を言わなくなってしまった。逆に、物申す人々を「文句ばかり言って」と非難する始末だ。
幕末の若者は違った。自ら進んで学問を求め、そこで出会った尊王論と攘夷論が社会を客観的に見る目を育てた。土居宿本陣を務める富豪に生まれた鉄馬もその一人だった。山陽新聞社『岡山県歴史人物事典』には、次のように説明されている。
草莽の志士。名を誠之助ともいい、諱は貞啓。英田郡土居村庄屋(本陣)安東質直(桂二郎・貞温)の二男に生まれる。但馬豊岡の池田草庵、播磨林田の河野鉄兜に学ぶ。兄桂二郎とともに行余堂(こうよどう)で豊田謙二に師事して、深く尊王攘夷論に傾倒する。1863年(文久3)生野の変に参じたが、事すでに終わった後であった。翌’64年(元治1)池田屋事件では宿舎を異にし、追及の会津藩士を斬って難を逃れた。同年、禁門の変に加わり、長州兵とともに鷹司邸で戦死した。
豊田謙二は「豊田謙次」あるいは「豊田美稲」で検索するとよくヒットする。近江出身の尊攘志士で、長州藩と深いつながりがあった。アジテーターであり革命の烽火を上げようとするテロリストであったが、慶応元年に備前で殺された。
そんな師匠からの薫陶により鉄馬も鋼鉄のような革命家に育ち、池田屋事件では近藤勇らに捕らえられたが、磨き上げた剣の力で逃げおおせた。禁門の変では久坂玄瑞、真木和泉の部隊に所属して戦ったが、最後は撃たれて亡くなったという。辞世は「わが太刀の折れぬ限りを命にてなぎはてましを醜(しこ)のしこ草」であった。社会変革に一命を擲った草莽の志士の最期である。
現今のコロナ禍にあって、見通しが持てなくて主張をためらっている人は多い。しかし、オリンピック開催は可否両論というより、否定的な思いに満ちているといって過言ではないだろう。競技場での感染を問題にしているのではなく、五輪開催という前提があるがために生じている社会の歪みを懸念しているのだ。今こそ草莽崛起…そんな気力さえ湧かない昨今である。
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