内閣の一つや二つ吹っ飛んでもおかしくない重大事が相次いでも、安倍内閣は安泰だったし、菅内閣の支持率も東京の感染者と同じく下げ止まり傾向にある。安倍内閣ではモリカケサクラというオトモダチへの優遇問題、菅内閣では長男が絡む7万円会食、側近による大型買収が騒がれたが、今すべてはオリンピックの喧騒の彼方で雲散霧消したかのようだ。
本日は、ある一つの内閣を吹っ飛ばした汚職事件ゆかりの地を訪ね、国民の倫理観が正常に機能していた時代を懐かしみたい。
神戸市東灘区西岡本七丁目に「ヘルマンハイツ」がある。うちの近所では見たこともないような御屋敷ばかりの高級住宅街である。そのほうらの来るところではないと叱られないか、おっかなびっくりカメラを構えた。
ドイツ風のカタカナ名称にして高級感を演出しているのではない。ヘルマンは人名である。
道路脇の電柱にもヘルマンさんはいた。ヴィクトル・ヘルマンはドイツの電気通信企業シーメンス社の極東支配人として来日、この地一帯を買い取ってゲオルグ・デ・ラランデの設計による豪邸を構えていた。ラランデは国重文「風見鶏の館」の設計者として知られる。ヘルマン屋敷は本格的な中世城館風の建築だったという。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という有名な電文がある。これを連合艦隊に発信したのが海軍無線電信所船橋送信所であった。この無線電信所建設に絡んで、ヘルマンは大正二年七月から翌年一月までの間に三回にわたって契約締結に関係した沢崎寛猛海軍大佐に11,500円が渡るよう手配したのである。
シーメンス事件はこれにとどまらず、戦艦金剛の発注に関して呉鎮守府長官松本和海軍中将に対する英国のヴィッカース社と三井物産からの贈賄が発覚する。スペイン風邪が名称として的を射ていないのと同じで、実はシーメンス事件もヴィッカース社のほうが事件の本丸だった。
事件は意外なところから明るみになった。シーメンス社の社員カール・リヒテルが機密文書を盗んで社を恐喝し、ドイツに帰国したところを逮捕された。その裁判結果をロイター電として日本の新聞が報じたが、その中で日本海軍の関与が明らかになったのである。
大正三年一月二十三日、第31回帝国議会衆議院予算委員会で島田三郎が山本権兵衛内閣を追及したことを契機に政府批判が高まり、2月10日には日比谷公園で山本内閣弾劾国民大会が開かれた。3月23日には海軍拡張を狙った予算案の不成立も確定し、レームダック化した内閣は翌月に総辞職したのである。
消費税を導入した竹下登内閣は、リクルート疑獄で支持率が4%弱、税率と同程度になってしまった。ところが現在の菅内閣は3人に1人が支持するという人気ぶりだ。支持率は下がらず倒閣運動は起こらず、権力に諾々と従うことが美徳にさえ思われている節がある。シーメンス事件に今こそ学ぶべきだろう。
大正三年七月十四日、ヘルマンに懲役一年、執行猶予三年の判決が下された。事件によりシーメンス社は辞めたが、ヘルマン屋敷には住み続けたようだ。その後の様子については、東灘区役所『東灘歴史散歩』に次のように記されている。
彼の一家は大正十四年春の上京まで、この家にいた。彼らが去ってから、屋敷は荒廃し、昭和二十年には空襲にあった。ゲオルグ・デ・ラランデの設計になる明治末の名建築も、スパイの住んでいたお化け屋敷とうわさされるほど荒んでいた。
昭和四十四年頃、宅地造成によって屋敷は完全に取りこわされ、新しい造成地に、ヘルマンハイツの名だけが残った。
建物が残っていれば、阪神間モダニズムの象徴として、一級の観光地になっていたことだろう。それでも「ヘルマン」の名前が残ったことだけでもよしとせねばなるまい。私はハイツの豪邸を目の保養にして坂道を下った。
河井夫妻選挙違反事件では贈賄側は罪に問われたが、収賄側は不起訴になるという。大正の軍法会議は松本和中将に対しても懲役3年、追徴金40万9800円の実刑判決を下している。当時の倫理観は今どこへ行き、どのようになっているのだろうか。
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