失われた塔に浪漫を感ずるのは私だけではなかろう。世界的に有名なのはバベルの塔だが、実在とまでは言い難いようだ。それでもマニアックなことに、ブリューゲルの名画を元に塔の高さを計算すると510mになったという。『ブリューゲルへの招待』朝日新聞出版より
失われた塔を求めて、このブログのアーカイブ「金色に輝く七重塔」で大安寺にかつて存在した巨大塔を紹介したことがある。塔跡に立って、そこに塔があるかのように虚空を見上げる。遮られない広い空が失われたものの大きさを語るかのようだ。
本日は昭和の初めまでは存在した三重塔のお話である。
岡山県久米郡久米南町仏教寺にある佛教寺の山門の先に「三重塔跡」がある。
現在は小さな社があるだけで何もない。幸いなことに説明板があるので読んでみよう。
医王山佛教寺は奈良時代、和銅三年(710)喜恵上人を開山とし、肩野部乙麻呂の建立による古刹です。
平安時代、第四十三代元明天皇代、和銅七年勅願道場として境内東西八十町、南北百町を賜わる、其後元慶三年第五十七代陽成天皇に至って、寺領三百町を勅賜されると同時に四十九院を建立すと共に三重塔も建立される。
鎌倉時代至徳二年(一三三〇)日置薩摩守祐忠入道により再建される。
安土桃山時代、兵火に罹って貴重な古文書、堂塔焼失す、江戸時代寛永十四年(一六三七)森内記長継公により再建、元文五年(一七四〇)平尾治郎兵衛氏寄進による営繕以後修理がかなわず、昭和年代に入り雨漏りが激しく、昭和九年に九輪が崩れ、次第に倒壊し、その跡に昭和六十一年五月新社殿を建立、現在に至る。
昭和六十一年十二月吉日
医王山佛教寺 第九十一世 中僧正甫守
記載された内容はほぼ『久米郡誌』と同じだが、この地誌は三重塔が存在していた大正十二年の発行である。このため次のような貴重な写真が掲載されている。
今と同じように木々に囲まれ、最上層のみ視認できる。この風景が今もあったなら、と想像する。
麓には国道53号が通る。岡山方面に向けて走り、津山線の跨線橋を上れば正面に三重塔が見えたことだろう。塔そのものの高さはそれほどでもないが、山上に凛として立つ姿はあたりの風景を引き締めたに違いない。
この道を幾たびも走り、そのたびに三重塔を思った。昭和九年のその日、塔は九輪から崩れ始めたという。新規感染者千人超えが続く東京。五輪関係者の感染も続出している。我が国が五輪から崩れないことを願うのみである。
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