冬枯れの道を走って行き着いた先に、鮮やかな朱塗りの塔があった。朝日を浴びて輝く以上に映えて見える。漫画でよく見る後光のような印象だ。この場所でこの時間にこの塔に向き合える奇跡。贅沢な旅とはこのことだろう。
美作市真神(まがみ)に「長福寺三重塔」がある。国指定重要文化財である。
山のふもとの一隅を朝日が照らす。すなわちこれ国宝ではなく重文なりである。三重塔なら以前の記事「内陸最大の地震に学ぶ」で、朱塗りの「岐阜公園三重塔」を紹介した。国登録有形文化財だが、意外にも近代建築である。
美作にある国重文の三重塔には、どのような由緒があるのだろうか。木製手書きの説明板には次のように記されている。
長福寺
長福寺は、奈良時代の天平宝字元年(757年)、孝謙天皇の勅願により唐の鑑真和尚が開基されたと伝えられる真言宗の名刹です。
この寺は、もとは真木山の山上にあり、盛時には60余坊が建並んでいたと伝えられていますが、度重なる火災で衰ろえ、昭和3年三重塔だけ残して現在地に移しました。そして塔もいたみがひどくなり、解体修理して昭和26年に現在地に移しまた。この塔は県下最古の木造建築物で、鎌倉時代の様式をよく伝え、国の重要文化財に指定されています。
環境庁・岡山県
「衰ろえ」「移しまた」はPC時代では考えられないスペルミスであり、逆に人間的で愛おしく思える。かつては写真右斜め上方向の真木山にあったという。麓からも見えていたのだろうか。注目すべきは県下最古の木造建築という点だ。鎌倉時代というが、もう少し詳しく知りたい。別の説明板には次のように記されていた。
三重塔 大正10年指定
3間4面、こけら葺、棟札には鎌倉中期弘安8年(1285年)の再建と記され、県下最古の木造建築である。全体の均衡がよく、細部も雄大堅実でよく鎌倉時代の特色をしめしている。昭和26年解体し山上より現地に修理移築した。総高22・07mである。
昭和55年3月 平成27年6月改
真木山長福寺 美作市教育委員会
古い朱塗りの三重塔には、木津川市の国宝「浄瑠璃寺三重塔(九体寺三重塔)」があり、平安後期の建築だという。そこまでではないにしても「弘安」という元号なら聞いたことがある。弘安四年(1281)の弘安の役だ。この地方に元寇はどのように受けとめられたのだろうか。
本日紹介の三重塔が建築されたのは弘安八年(1285)だから、史上有名な霜月騒動の年だ。簡単に言えば、安達泰盛派と平頼綱派という政権内部の権力争いなのだが、政治的志向としては合議制か独裁制かということになろう。勝ったのは独裁制を志向する平頼綱だった。
このことが幕府に対する御家人の不満を高めていく一因となるのだが、三重塔の建築現場では話題になったのだろうか。それから為政者は次々と変わり、諸行は無常であるかのようだ。しかし、場所が移ったとはいえ三重塔の均整のとれた姿だけは変わらない。鎌倉の人も令和の人も、同じように美しいと感じている。美だけが信ずるに足る普遍的価値なのかもしれない。
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