土岐氏は美濃源氏の名族だったが、頼芸(よりのり)の代に没落する様子が大河『麒麟がくる』で描かれていた。演じたのは尾美としのりさん。人のいい文化人だったから悲劇的な最期を迎えることなく、子孫は旗本として続いたという。
一族には近世大名となる者もいた。血筋では明智光秀に近い土岐定政で、姉川の戦いなど早くから家康のもとで活躍した。譜代大名土岐氏の原点はここにある。のち子孫は下総守谷、摂津高槻、下総相馬、出羽上山、越前野岡、駿河田中と目まぐるしく移ったが、8代将軍吉宗のもとで老中を務めた頼稔(よりとし)の代に上野沼田に移り幕末に至る。
土岐頼稔は享保十五年(1730)に大坂城代となったが、この時、幕府領だった美作東部の一部を与えられ、寛保二年(1742)に沼田藩の飛地となった。本日は沼田藩領だった英田郡上山村の紹介である。
美作市上山に「上山の千枚田」がある。上山だけに坂道をずいぶんと登った場所にある。
棚田については、このブログで「こいのぼりの泳ぐ棚田」「円形劇場のような棚田」「地すべり的な棚田」の三本をお届けしている。本日紹介の棚田にはどのような特徴があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
英田町指定文化財
上山の千枚田
かってこの一帯には、百町歩、八千参百もの棚田が広がっていました。
ほとんどの水田が石積の畦畔で出来ており、昔の人の苦労が偲ばれます。
この地方は、国学の栄えた所で、今でも「田毎の月」「耕して天に至る」と言った農耕にまつわる風流な言葉が残っております。
美しい村づくり推進事業
英田町上山地区美しい村づくり推進協議会
平成の大合併前、ここは英田郡英田町だった。現在は美作市の名勝に指定されている。8,300枚の田があるという。これくらいの数になると「数えきれない」と形容しそうだが、よく数えたものだ。
注目したいのは国学が栄えたという部分だ。千枚田の説明板の近くに上山神社があるが、幕末のころ社家赤木家に「赤木盛常」という人がいた。英田町史第二集『英田町の地区誌』には、次のように紹介されている。
代々上山神社の神主で、若狭ともいう。国学を備前の平賀元義に学び、慶応4年吉田三位殿のお召により中川寛等神威隊榊組として上京し内侍所を守護した。3月同志10名余と比叡山に登り、日吉神社の仏像を除き天下を驚かせた。帰国後丹波国におもむき、桑苗を河会地方へ植付け工女を丹波より雇い入れ、製糸工場を建てるが中途にして明治6年没す。
ここにも平賀元義に学んだ勤王の志士がいたのだ。戊辰戦争が始まると、全国の神社に強い影響力を持つ吉田家は、配下の神職を集めて「神威隊」という草莽隊を組織した。吉田三位殿とは正三位吉田良熈(よしひろ)のことだろう。中川寛は盛常の同志で天石門別神社の神職である。平和な棚田風景とは裏腹に、維新の熱狂に舞い上がった神職がやったことは、仏像の排除というよりテロに他ならない。全国に吹き荒れた廃仏毀釈の先駆けであった。国学の功罪をここに見る思いがする。
鳥居前に「津山城主森・沼田領主土岐 家崇敬社」と刻まれた石碑がある。領主は最初森家、その改易後は幕府領となり、吉宗の時代に土岐家の領地となった。遠く離れた上州沼田藩は美作の飛地をどのように支配したのか。宮司さんが著した『上山風土記』(赤木美作守)には、次のように記されている。
現在の美作町海内(みうち)に代官所を置き、各村に庄屋・年寄を任命し、福本の田中氏を大庄屋として年貢米を取り立て、領民の苦情処理等にもあたらせた。
年貢米は一たん田中家に集められ、福本浜の下から高瀬舟に積み込まれ、吉野川から吉井川の本流に出て西大寺まで下り、内海船に移されて大阪の土岐家蔵屋敷へ運ばれた。
海内の代官は大変な権限を持っており、その名を聞けば泣く子も黙るといわれたぐらいで、民衆からは非常に恐れられていた。海内では罪人の処刑もしばしば行われたという。
飛地が維持できたのは、いや藩の財政を支えていたのは、この物流である。年貢を大坂にいかに運び現金化するかを考えれば、西日本に飛地を持つメリットは十分にある。
上山村の棚田で穫れた米も同じく大坂へと運ばれた。この棚田とそこで汗水流して働く百姓の姿を土岐のお殿様はご覧になっただろうか。幕府の重役でもあり上州と江戸との往復で精一杯だったろう。現地を任された海内の代官が本気になるのも無理はない。
米のなる木は金になる木であったが、近年の米需要は激減し、主食用米としては今年初めて700万トンを下回る見込みだそうだ。コメ余りによる米価の下落は飼料用米への転作で回避する方針だという。動物もおいしいご飯がいいらしい。こういう状況だから棚田の維持にも大変な苦労があることだろう。美しい棚田の景観と土岐家領としての歴史、そしてそこで穫れたおいしいお米を応援しようではないか。
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