四年に一度の世界の祭典が終わった。バッハ会長から「五輪開催には犠牲が必要」と言われ、諾々と従うほかなかった私たちは何を得ることができたか、今一度考える必要があろう。会長はペリー、マッカーサーと並び称され、その言動は日本人をして「尊王攘夷の志士の気持ちが分かる」とまで言わしめた。尊攘はやがて倒幕へと向かうことになるのだが、IOCに物申せず天皇の開会宣言に座ったままだった菅首相はどうなるのか。
「尊王攘夷」というが尊王と攘夷は別物で、尊王論の系譜は攘夷論よりもずいぶん長い。本日は国学の隆盛以前に尊王を訴えた崎門(きもん)学派に注目しよう。
宍粟市山崎町鹿沢に闇斎神社があり、門前に「山崎闇斎先生像」がある。
宍粟市には播磨一宮の伊和神社や、日本酒発祥の地といわれる庭田神社など古い神社がいくつもある。だが、闇斎神社は新しいようだ。闇斎先生のお名前は近世思想史で聞いたことはあっても、説明できる人は少ないだろう。まずは掲示板に貼られている解説を読むことにしよう。
山崎闇斎先生は山崎町の出身で、(一六十八年)元和四年京都で生まれられ、幼くして比叡山に預けられ、次いで妙心寺の僧となり、十九歳の時土佐吸江寺に移り、野中兼山らと交わり谷時中について朱子学を修められ、三十八歳の時京都に帰り還俗して市中に塾を開かれた。学名頓(とみ)に揚(あが)り、時の大老保科正之の知遇を得、招かれて賓師となり、半年毎に江戸と京都の間を往復された。後神道を学び垂加神道と称する一派をつくられた。即ち神の道と天皇の徳が唯一無二と説く神儒一致論である。教育者として熱烈厳格な態度を持され、門弟は六千人を超えた。
この神社は皇紀二千六百年を記念して昭和十五年九月に建立されたものである。またこのブロンズ像は昭和三十八年作家吉川英治氏によって山崎町に寄贈された木彫を原型として、山崎ライオンズクラブが創立二十周年記念事業の一つとして、昭和六十年九月複製寄贈されたものである。
平成二十四年三月吉日 当屋一同
国学が儒教を排したのに対して、闇斎先生は朱子学を軸に神道の考えを整理し、君臣関係を基にした社会秩序の維持を重視した。特に天照大神を信仰し、その子孫である天皇を崇敬した。まさに保守本流である。
闇斎先生の流れを汲む崎門学派は多くの優れた思想家、運動家を輩出している。崎門三傑の一人浅見絅斎(あさみけいさい)の『靖献遺言(せいけんいげん)』は中国と日本の忠臣についてまとめた書で、幕末の志士に大きな影響を与えたという。
また、宝暦事件の竹内式部(たけうのうちしきぶ)、明和事件の山県大弐(やまがただいに)も崎門学派であった。この頃の尊王論は幕府が弾圧できる程度の勢いしかなかったし、そもそも幕府を倒そうとなどしていなかった。
神社の境内に「山崎闇斎先生祖考之碑」がある。「海軍大将有馬良橘(りょうきつ)敬書」ともある。有馬は日露戦争で活躍した軍人で、東郷平八郎の側近だった。「祖考」とは亡くなった祖父のことである。
裏面の碑文は最後に「紀元二千六百年九月二十四日 後学内田周平拜記謹書」と記されているから、近代の崎門学派内田周平先生の撰文である。碑文を読み取るのは私の力量を越えるので、昭和十二年発行の山崎商工会『山崎案内』の記述に頼ろう。
闇斎屋敷
当町西鹿沢百三十二番の地に俗に闇斎屋敷と称する一段余歩の田圃を存してゐる、叢中に一古井あり、伝へて闇斎産湯の井といふ
闇斎先生、名は嘉、字は敬義(モリヨシ)、闇斎はその号である、晚年垂加翁とも称した、曾祖父浄栄は播州宍粟郡山崎村の人で、隨つて祖父浄泉が当山崎で生れたことは確実である、前記西鹿沢の闇斎屋敷がその邸宅の趾と思はれる、父浄因は泉州岸和田で生れ、後京に上つて鍼医を栄み男女合せて四人の子を挙げ、先生はその末子であつた、元和四年十二月九日(今年より三百十八年前)甲子の日が、その誕生日であるに係らず、その出生地が、或は京都といひ或は山崎と称へ、明確な記録の存するものがない、しかしその何れにせよ当地が先生に深き由縁の地であることは最早争ふ余地のないところである、幸に闇斎屋敷の存するあり、これが復旧整地して以て先生の偉風を顕彰せむことは吾が郷土人の責務であると考へる
闇斎神社の住所が山崎町鹿沢132-1のようだから、闇斎屋敷に闇斎神社が創建されたのだろう。昭和十五年の紀元二千六百年祭は一大イベントで、非常時でなければオリンピックもあったはずだ。先生にはすでに明治四十年に正四位が贈られていた。勤王の志が評価されたのである。
ただし先生はこの地ではなく、京に生まれ育ち、京と江戸で活躍した。山崎での活動が確実なのは祖父の代までだという。だから顕彰碑の銘に「祖考」とあるわけだ。
さてバッハ会長は、コロナ禍の中で五輪開催に尽力した菅首相らに功労章「五輪オーダー」金章を授与する、と明らかにした。IOCへの揺るぎない忠義が評価されたのだろう。かつて日本による韓国併合に尽力した李完用(イ・ワニョン)元首相には、帝国政府から大勲位菊花大綬章が与えられたという。
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