江戸時代に大名として最も栄えたのは本多氏で、大名13家、旗本は45家を数えたという。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)もっとも有名なのは徳川四天王の本多忠勝、大河『真田丸』の藤岡弘のイメージが強い。次は名参謀の本多正信、『真田丸』の近藤正臣の印象だ。そして、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の本多重次もよく知られる。この三人は兄弟ではなく、別の家だ。
嫡流は忠勝の長男系統の岡崎藩主家で、本日紹介するのは忠勝の次男系統の本多家である。領地としていたのはここだ。
宍粟市山崎町鹿沢(しかざわ)の山崎城跡に「山崎藩陣屋門(紙屋門)と左右の土塀」がある。
播磨山崎藩は慶長二十年(1615)に池田輝政の子輝澄が立藩。輝澄が御家騒動で改易された後は松井松平家、再び池田家と続き、池田家無嗣断絶の後に本多家が入った。初代の忠英は忠勝の次男忠朝の孫で、延宝七年(1679)に入封した。説明板を読んでみよう。
宍粟市指定文化財(建造物)
山崎藩陣屋門(紙屋門)と左右の土塀
高麗門形式のこの門は、断面が矩形で幅の広いほうを正面にした二本の主柱(鏡柱)の上部に太い指物を渡して桁を乗せ、その上に組まれた三本の腕木と出桁で切妻の屋根を支えています。主柱に打たれた肘壺には、下方が板張りで上方は透窓になった門扉が取り付けられています。左右の土塀は、低い石積みの上に築かれて屋根がかけてあり、本多氏入封の延宝七年(一六七九)以前からのものです。
この門の建築年代は、資金寄贈者である「紙屋」の盛時や他の記録から推して、嘉永~安政期の一八五〇年代と考えられます。
宍粟市教育委員会
土塀はかなり古いようだが、門は幕末期の建造物だ。藩主でいえば8代目の忠鄰(ただちか)の時代である。忠鄰は大坂城代に次ぐ大坂定番を二度も務めたできる官僚で、娘於勉(おかつ)に種痘を受けさせたという記録も残る。施術したのは名医緒方洪庵先生だった。
門の中には「鹿澤城本丸跡」と刻まれた大きな石碑がある。山崎城は鹿澤城ともいう。ここに藩政庁の本丸屋敷があったが、今は法務局山崎出張所の旧庁舎が移築されている。
宍粟市山崎町門前の山崎八幡神社の境内に「本多神社」が鎮座する。「正四位勲三等錦鶏間祗候金井之恭書」とあるから、明治の書家金井之恭(かないゆきやす)の揮毫である。
ご祭神は本多忠勝公・忠真公・忠朝公である。忠真は忠勝の叔父で三方ヶ原の戦いで討死した。忠朝は忠勝の次男で大坂夏の陣で討死した。忠朝の遺児はわずか二歳であったが、巡り合わせで長じて本家を継ぐこととなった。政勝である。山崎藩初代の忠英は政勝の三男であったため傍系の養子となり、山崎への移封前は大和郡山新田藩を継いでいた。義に殉じたご先祖さまを敬慕し、本多家の弥栄を祈ったのであろう。明治になって子爵家となった。
楽天の三木谷社長の御祖母は、この本多家の出身(最後の藩主の孫娘)だという。社長は通信事業において、NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの通信大手3社を相手に、勝ち目ゼロと言われながらも強気の姿勢を崩さない。その姿勢は三方ヶ原の忠真公の姿と重なる。さすがは本多家の流れを汲む者というべきか。
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