公開処刑という言葉を最近の若い人がよく使う。恥をかくとか立場をなくすというニュアンスだが、かつては本当に、公衆の面前で公権力が命を奪っていた。一罰百戒、見せしめのためである。
美作最大の山中一揆では51名が処刑され、うち首謀者とされた2名は磔となった。その詳細については「享保の改革に抵抗した一揆」や「持ち帰られたお地蔵さまの首」で紹介している。仲間村牧分の徳右衛門については既述しているので、本日は見尾村の弥治郎の話をすることとしよう。
真庭市見尾に「義民樋口弥治郎碑」と刻まれた石碑がある。大正六年に勝山町城北有志者青年団が建立した。
傍らに小さな石碑があり、「義民弥治郎忠犬塚」と刻まれている。弥治郎を語るうえで、この犬の存在は欠かせない。説明板を読んでみよう。
弥治郎獄
山の中腹に岩の亀裂による 洞穴がある。
享保十一年(一七二六)の山中一揆の副大将樋口弥治郎がのがれこの穴にひそんだと伝えられ、飼犬白が弁当を運んだという。後世義民の徳をしのんでこの山を弥治郎嶽と呼ばれるようになった。
真庭市教育委員会
これぞ忠犬である。その塚が弥治郎の石碑に寄り添うように置かれているのも愛くるしい。タイトルに「弥治郎嶽」とあるが、碑や説明板の周囲は平地である。後ろを振り向くと…、その山はあった。なんと山でありながら「山中一揆関係資料」として市の歴史資料に指定されている。
「弥治郎生誕の地」に生家跡があり、その向こうにぬぼっとした感じの「弥治郎嶽」がある。
この山は岩が崩れたかのように積み重なっており、いたるところに隙間をつくっている。そのうち大きく洞窟になっている場所に弥治郎が隠れ、忠犬のシロが食事を運んだのだ。弥治郎はその後どうなったのか。説明板に一揆の経緯が詳述されているので、併せて読んでみよう。
弥治郎の由緒
山中一揆は、享保十一年(一七二六年)末より同十二年初頭にかけて、津山藩を震駭させた農民一揆で、規模の広大さ、一揆の要求の意味するもの、犠牲者の多大であったこと等、わが国の農民一揆中有名なものである。
その震源地が真嶋、大庭二郡の内、いわゆる山中の村々(勝山町城北地区から北の湯原、中和、八束、美甘、新庄にかけての地域)であったことから、この名称となった。
一揆の発起人であり、指導者となったのは大将池田徳右衛門(湯原町牧)副将が樋口弥治郎と言われている。
当時、山中の村々が属していた津山藩の財政は凶作飢饉、大風洪水により極めて悪化しており享保十一年には年貢米四割増微、納期の一か月繰上という布告がでた。また、藩主の死去など混乱の最中であった領内では、一部の庄屋による郷蔵米の横流しが発覚するなど不穏な空気が領内にはびこった。
このような藩政に不満を持った山中の農民は、十二月四日徳右衛門、弥治郎に率いられ久世に集結、周辺の庄屋を打ち壊すとともに、他の村々にも蜂起を促した。
これら一連の行動により、年貢米の四割増微撤回など一揆の要求が認められ大勝利となった。
しかし、これによる藩の損害は大きく、享保十二年正月自己の存亡をかけて鎮圧に乗り出し、山中を急襲し、徳右衛門ら農民を召し取り、制圧した。この結果、入牢する者百人、獄門にかけられた者四十五人に達した。
しかし、主要人物が逮捕された後もただ一人弥治郎だけが行方知れず、役人達は徹底捜査をするかたわら、母、兄に縄を掛け、捕獲の体制をしいた。
正月十四日、見尾村聖ケ岳(ひじりがだけ)の洞窟に弥治郎の足跡を発見しついに捕らえられた、これ以来、聖ケ岳は弥治郎岳と呼ばれることとなった。
以上が山中一揆の概略であるが、この一揆は、藩の政治危機をとらえて蜂起し、幕府に指導された享保改革を失敗に終わらせたこと。封建的支配の支柱である「村」の権力を広範な地域で掌握し、武器を取るなどで封建領主と真向から対決した一揆であった。
多くの犠牲者を出しながら、徳右衛門、弥治郎らが義民として尊敬され、多くの伝説とともに人々の心に残っているのは 、この一揆のもつ意義がいかに大きかったかがうかがえるものである。
弥治郎の生家と弥治郎嶽は昭和三十三年、史蹟として町の文化財に指定されましたが、生家は昭和四十三年に解体されました。
真庭市教育委員会
一揆の意義まで端的に示されている。革命の萌芽を見いだす論調は、マルクス主義史学がさかんだった時代には好まれたが、近年はどう考えられているのか。物語としては、反権力という大きなストーリーに弥治郎がいかに関わり、家族がどう支えたのかに注目したいところだ。挿絵であれ映像であれ、弁当を口にくわえて岩を駆け上がるシロの姿だけは欠かせない。
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