少し前の大河『真田丸』で真田信幸(大泉洋)の心の相談相手として京の才女小野お通(八木亜希子)が登場した。ずいぶん前の大河『武蔵 MUSASHI』で宮本武蔵(市川新之助)の恋人としてお通(米倉涼子)が登場した。前者のお通は実在の人物で、後者のお通には銅像があるが、架空の人物である。
あの柳田國男先生もお通のファンだったらしく、少々感情的に次のように書いている。『妹の力』「小野於通」より
吉川英治君の『宮本武蔵』には、お通という同じ故郷の美女を出して来て萍蓬流離させて居るが、是をしまひにはどうする積りであるのか、我々見物には可なり気が揉める。(中略)独り我々が作州の古人物の中で、兼々ゆかしく思って居るお通といふ女性が、斯うしていつまでも旅の空で年を取って居るのは、人をして惜春の情に勝へざらしめる。もういい位に死ぬ者なら死ぬ、神になって昇天する者なら又さういふことになるやうに、したいものとさへ思はれる。
さすがは国民文学の大家、吉川英治先生。偉大な民俗学者をしてここまでやきもきさせるとは。その国民的アイドルお通は小野お通がモデルだと言われているが、『真田丸』のお通とは別の「小野お通」が作州津山にいたというのだ。
津山市押入(おしいれ)に「白神神社」がある。社殿には「白神大明神」とある。
こんなところにあるのかという場所だが、重要なのは後ろの石碑である。
題額には「白神廟之碑記」とあり、びっしりと漢文が記されている。「江戸 北山 山本信有文」と撰文をした人が分かる。冒頭には「白神大明神者美作国東南条郡押入下村岸本産兵衛尚俊女也母小野氏也」とあり、小野お通の生涯が記されているらしい。このことは柳田國男先生も『妹の力』「小野於通」で次のように紹介している。
美作の於通は久しい後まで、其記憶が幽かながら土地には伝はって居た。この美人が二十九歳で昇天してから、百五十二年目の享和二年に、血の繋がりを持つとい岸本某が、江戸から遣って来て祠の前に記念碑を建てた。山本北山が頼まれて其文を書いたのが、東作誌に録せられて今も伝はって居るから、之に基づいて又色々の解釈が出来て居ることであらう。勿論信じ難い伝説が時と共に附加はって居るのであるが、さういふ中からでも、尚昔の世の人の心を掬むことが出来るやうで、又無く我々にはなつかしいのである。
撰文の山本北山は江戸中後期の儒者にして漢詩人。弟子には梁川星巌がいる。このような大家の関わる石碑でありながら、知る人ぞ知る石碑となっている。柳田先生はまさに知る人であった。さすがは知の巨人である。
美人薄命そのままの小野お通とは、どのような女性なのか。同じく柳田先生の『女性と民間伝承』「文ひろげの狂女」には、次のように記されている。
世に優れた美人にして学問を好み、五つの歳から和歌を詠みました。いったん親の約束にもとづいて、京都の富豪に縁に付いて祝言の式を終わり、もうこれで約束だけは果たしたからと言って、その夜のうちに四十里も隔たった美作の家に還ってきたので、父母兄弟がはじめて神通のあることを知ったとあります。それから追々に祈祷まじないを頼みにくる者が多くなり、ついに故郷を辞して国々を巡り、十八の年には再び京都にきていました。それが元和の五年、すなわち後水尾天皇の御治世なかばのことになるのですが、信じ難い話には、ちょうどそのころ天子様が御不例で、宮中に召されて占いを試みると、御病は竜蛇の祟りであり、十二の壇ごとに水桶をおき、金銀の幣を立て香を焚いて修法をすると、果たして桶の水が沸きあがって、その中には小蛇が咬み合って死んでいて、たちまちにして御悩は平癒したと申します。叡感のあまりに御手ずからの御筆をもって、白神大明神という神号を賜わり、しかもそのままにお側に仕え申すことになったなどというのであります。
確かに信じがたい話である。しかし語り伝えるなら、これくらい話を盛らないと面白みがない。お通が亡くなったのは寛永七年(1630)、石碑が建てられたのは享和二年(1802)。この時代には系図を粉飾し、名族の出であることを自慢する事がよくあった。しかし、先祖の女性が天皇から神号を授かったとアピールするとは、どういうことか。
江戸期には権威ある貴人に認められることが庶民の夢であった。それからずいぶん後の昭和期には、すれ違う恋に国民の心はやきもきさせられた。どちらも人々の心を動かしたのは「お通」という女性。これからの時代に「お通」が登場するなら、何をモチーフに描かれるだろうか。
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