大河『青天を衝け』は見ていないのだが、維新礼賛の司馬史観を脱却したと高く評価されている。これまで私たちには暗愚な幕府と聡明な薩長という思い込みはなかっただろうか。実のところ、幕府によって進められていた近代化の果実を、暴力で奪ったのは薩長に他ならない。
百姓一揆はどうだろうか。搾取される農民が決起した反権力闘争、平等を志向する階級闘争であり、革命の先駆けであったという見方がある。マルクスもなかなかの慧眼だなと感心するものの、すべての百姓一揆が評価されているわけではない。本日は変化も平等も求めなかった一揆「美作血税一揆」の話をしよう。
岡山県苫田郡鏡野町貞永寺に「筆保卯太郎の墓」がある。一揆のリーダーとなった人物である。
血税一揆は西日本各地で勃発したが、とりわけ美作では激烈であった。政府は明治五年の徴兵告諭において、徴兵の義務を次のように説明していた。
西人之ヲ称シテ血税ト云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ
これが「生血」を吸い取られるという誤解となり、世情は穏やかでなくなった。明治四年の断髪令以降、解放令、学制発布(五年)、徴兵令(六年)、地租改正と、矢継ぎ早に近代化がすすめられた。しかし農民にとって、これは進歩でも改善ではなかった。
人は本来、保守派である。というのも変化を嫌う本性を有しているからだ。確かにより良い生活を求めるものの、変化は悪くなるというリスクを伴う。ならば「今までどおりでいいじゃん」、これでこれまでやって来たのだから、これからもこのままでいい、というわけだ。
だから筆保卯太郎は、次のように供述している。
自分儀、兼テ当村総代役相勤居候処、近来御布令乍恐何事二不依心二不慊、就中徴兵・地券・学校・屠牛・斬髪・穢多ノ称呼御廃止等ノ条件二至テハ実二不奉服、如何ニモ御損廃二相成、従前へ復シ度卜偏へニ心ヲ苦シメ、其次第歎願可致卜一応ハ思出候得共、熟ラ当今ノ時勢ヲ察スルニ、只管願出候共必御許容ニハ相成間敷、彼是時日ヲ費サンコトヲ、恐レ多クモ寧ロ強訴卜名ケ、徒党ヲ結ビ暴動ヲ起シ、兇威ヲ逞フシ県下へ迫ラバ、右ノ勢力ヲ以テ圧倒シ、前書ノ事件自然御取消二相成可クト、兼テヨリ窃二思惟致候
「徴兵・地券・学校・屠牛・斬髪・穢多ノ称呼御廃止」は承服できないという。維新の近代化に真っ向から反対する抵抗勢力である。卯太郎は白衣の男を仕立て、村人に血取りの噂は本当であったと信じ込ませた。鐘をたたくと瞬く間に人が集まり、一揆勢となったという。明治六年五月二十六日のことである。
その後、雪崩を打つがごとく南下した一揆勢は、翌二十七日払暁に宮尾村の中須賀河原に集結し津山市中へ押し寄せた。愛染寺前で官憲と対峙し、退散を求められたが退くことはなかった。やがて罵詈雑言を吐く者が出てきたことで官憲が発砲し、一揆勢は4人の即死者が出して終わった。卯太郎の墓碑には、次のように刻まれている。
美作や擾騒一の元帥と後の世迄も名をば伝へん
露と消へ露と消へ行く我が身かな古年の騒は夢の又夢
七月二日 北条県役前二於て
筆保卯太郎 土肥良久 行年三十四才
卯太郎は一揆の首謀者として刑場の露と消えていった。正面には「住心院高閣知還居士」という法名、側面には「明治七甲戌年五月十九日」の日付が刻まれている。
貞永寺村が蜂起した二十六日、これに呼応して加茂谷の楢井村が蜂起した。周辺の村々から加勢を得て、竹槍、棍棒、猟銃で武装した一揆勢は、戸長等の家を打ち壊しながら南下した。そして勝北郡津川原村で、村人18名を虐殺する事件を起こすのである。
津山市三浦に、殺害を免れた人が父と兄二人の五十回忌(大正十一年)に建てた慰霊碑がある。同じく生き残った母もすでに鬼籍に入っていたので、ともに祀っている。
建碑の由来と無念の思いをつづった詩が刻まれた碑文は、次のように始まる。
明治六年我邸宅漠然帰烏有而父母則歿
凶徒之刃遺憾非口頭之所得
凶徒と化した一揆勢は、山林に隠れた者まで探し出して殺傷したという。この他にも、久米南条郡藤原村から出発し、美作東部を席巻したグループもあった。美作全域を揺るがしたこの一揆で処罰された者は26,916人にものぼった。うち死刑は15名で、卯太郎を除く14名は虐殺事件に関与したものだったという。
新しいものを受容できず反発するのは、古今東西よくある話。産業革命によって導入された機械を、オレたちの職を奪うとぶっ壊したイギリスの労働者がいた。ラッダイト運動は自らの生存権をかけて時流に抗した争議行為である。
美作の人々も経済的な負担増に抵抗したのは確かだが、差別的な優越感まで保持しようとしたことで事件となった。人の一生を簡単に善悪で評価できないのと同じように、美作で起きた数々の一揆がすべて正義を訴えたわけではない。私たちは負の歴史からも大いに学ぶことができる。
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