上司の思い付きだったり理不尽だったりする指示と、「はん?ありえない」と不満に思う部下のまざまで苦しんでいるのが、中間管理職のみなさまである。理不尽に思えてもよくよく考えればその方策しかないこともあり、不満も自分が経験してきただけに痛いほど分かってしまう。板挟みに苦しむ中間管理職はどうすればよいのか。上司の側に立って部下を説得するのか、部下の側に立って上司に直言するのか。
津山市下高倉西の下高倉交差点に「義民堀内君顕彰碑」と刻まれた黒光りする石碑がある。
揮毫は「国務大臣 田中角栄」とある。昭和四十七年三月二十七日の建立だから、当時は佐藤内閣の通産大臣だった。『日本列島改造論』を発表し、七月には内閣総理大臣となる。もっとも勢いのあった頃の角栄さんの書は、それだけで貴重だ。ただし、角栄さんは津山とも義民堀内君ともゆかりがないはずだ。しかし列島改造論に押されて中国縦貫道が完成し、大阪に近くなった津山市民は角栄さんのおかげだと感謝したかもしれない。
金権政治を体現する政治家とみられたが、歴代総理の中では今なお根強い人気を誇るカリスマ性がある。今太閤が顕彰した義民とは、どのような人だったのだろうか。裏面の碑文を読んでみよう。
発しては万朶の桜となり風雲は凝って雨を呼ぶ。古来郷土の艱難に身命を挺し従容として義に就くもの蓋し稀なり。嗚呼堀内氏の壮挙たるや元禄一揆の精華作州義人の先蹤なり。封建の世丘陵相迫り田野狭く水利に乏しき当地方は困乏を極め居たるが中に元禄十年津山藩主森氏除封されて幕邑に帰し藩領の租法六公四民は五公五民と緩和され領民は稍生気を呈せしも同十一年正月松平氏入封して又租を厳しくせしため怨磋の声は期せずして沸き起り近郷に不穏の気漲る十一月高倉村大庄屋堀内兄弟は遂に座視するに忍びず則ち倡主となり比郡を糾合し軽装に縄を帯として群衆数千の先頭に立ち城下に赴き敢然として軽減を求む。藩は驚きて鎮圧にかむると共に一旦偽り聴許して解散せしめしも固より容るべくもなし。尓余の庄屋等は其の懐柔に屈したるが最後まで独り頑強に窮状を愬へし三郎右衛門及び長子平右衛門弟四郎右衛門佐右衛門等八人を捕へ翌年三月二十七日兼田河畔に処刑す。惟ふに其の悲願は後年の施政に反映されて領民に多大の恵沢を遺し悠久三百年今に及ぶまで芳烈を伝へ光芒を放てり。今次地区民相謀り郷土の誇り精神の規範と仰ぎて高倉の地に顕彰の碑を建つ。義人の霊茲に始めて瞑すべく盛名永く赫奕たらん。希くは後人其の遺風を宣べんことを
津山藩は森氏改易後、いったん幕府領となり、元禄十一年(1698)に松平氏が入部した。百姓たちは森氏による高率の課税に不満を抱いていたので、幕府領の五公五民には安堵していた。ところが、松平氏も森氏と同様、いやそれ以上の課税をすると分かり、村々に不穏な空気が流れ始める。
ここに至って大庄屋の立場は二分した。いや多数派と少数派に分かれた。一方触(いっぽうぶれ)の六郎右衛門や野介代触(のけだいぶれ)の太郎兵衛は秩序の維持を重視した。しかし、高倉触の三郎右衛門は違った。百姓の主張に理解を示し、粗末な身なりで年貢軽減を要求する群衆の先頭に立ったのである。
藩当局は要求を認めて一揆勢を退散させたが、これは謀略だった。三郎右衛門ら抵抗勢力は軒並み捕らえられ、八名が斬罪となった。いっぽう一方触の六郎右衛門は在方惣代として大庄屋筆頭扱いとなり、他の大庄屋も一同に帯刀御免などの特権が与えられた。藩は中間管理職の懐柔、分断を図ったのである。
津山市高野本郷の萬福寺に「堀内三郎右衛門君碑」と刻まれた顕彰碑がある。昭和六年に建てられた。揮毫は「法学博士平沼淑郎」で、津山藩士平沼家出身で平沼騏一郎首相を弟に持つという学者である。
裏面には漢文の碑文があり、傍らに読み下し文が掲示されている。碑文の核心部分を抜き書きしよう。
大里正二十余人皆辞服君独抗言民疾苦声色不屈
(大里正二十余人ミナ辞服ス。君独リ抗民ノ疾苦ヲ言ヒテ声色屈セズ。)
「民ノ疾苦ヲ抗言シ」のほうがよいと思うがどうだろう。いずれにしても、大庄屋がみな屈服したのに、三郎右衛門は困窮する百姓の救済を主張し続けたということだ。大勢に流されることなく自ら信ずるところを貫く姿勢は、まさに「義」である。
ただ三郎右衛門のみが正義で、他の大庄屋は自己保身で卑怯だった、と言うこともできないだろう。主戦論はいつも勇ましいが、穏便に事を運ぶのも中間管理職として大切なことだ。できることなら大庄屋が団結して百姓の立場を主張し藩当局と交渉すればよかったのだが、それができれば苦労はない。権力者の分断策に翻弄されるのが常なのだ。
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