主家再興を三日月に祈る忠義の武士、山中鹿介(やまなかしかのすけ)。『甫庵太閤記』に始まり頼山陽が盛り上げ、大町桂月が脚色して国定教科書で確立したストイックな武者像は、価値観が変化した現代にあっても色褪せることがない。ゲーム「戦国無双5」に登場したり、「鹿介」「新六」という親子の名前で酒が造られたり、さらには片岡愛之助が演じたりという人気ぶりだ。
庄原市東城町菅(すげ)の徳雲寺に「山中鹿之助幸盛公首塚」がある。
鹿介については本ブログ「麒麟(きりん)と呼ばれた武者」で、殺害された備中松山と足利義昭が首実検をした備後鞆の浦の史跡を紹介した。ではなぜ中国山地の中に首塚があるのか。日本歴史地名大系35『広島県の地名』(平凡社)「徳雲寺」の項には、次のように記されている。
「陰徳太平記」によると、天文二三年(一五五四)尼子晴久が同族尼子誠久を殺したとき、誠久の三男助四郎(のちの勝久)は二歳であったが、山中鹿之助の計らいで乳母とともに徳雲寺に落ちのび、五世住職覚海のもとで一〇余年間養育された。永禄九年(一五六六)尼子義久が毛利氏に降伏したため、助四郎は毛利氏の領国に住むことを嫌い上京して京都東福寺で修行、のち鹿之助に擁立されて同一二年尼子再興の旗を揚げることになったという。結局、再興は失敗し、天正六年(一五七八)勝久は自害、鹿介は捕らえられ護送の途中備中で殺され、その首級は鞆(現福山市)に埋葬されたが、従者は夜中ひそかに首級を徳雲寺に持帰り、改めて供養をしたという。現在、当寺には鹿之助の首塚がある。
徳雲寺には鹿介の主君となる後の尼子勝久が逃げ込んでいたのだという。このことは『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久入雲州付松永霜台事」に、次のように記されている。
爰に先年新宮党の人々為晴久生害せられ給し時、尼子式部太輔の三男二歳なりしを、乳母懐中に抱て遁れ出て、備後国へこえ徳分寺の僧を頼て隠し置き、漸く成人せられしが、如斯毛利の領国に居たらんは、始終事不可行とて洛陽に上り、東福寺に在て見性成仏の適意に心を凝し、風雲雪月の詩景に眼を歓しめらる。
徳分寺は徳雲寺のことだろう。二歳の勝久が落ち延びる場所としては妥当であり、史実と考えてよいのではないか。ただ、従者が首級を持ち帰ったというのは牽強付会に感じるが、否定する証拠はない。鹿介を後世の人々に慕われていることだけは間違いない。
先月の九州場所で惜しくも負け越した前頭十二枚目の石浦は、今年初場所から本名の将勝(まさかつ)から「鹿介(しかのすけ)」に改めた。鳥取県出身だけに、山中鹿介の不屈の精神に倣おうとしている。頑張れ石浦関。鹿介が貴殿を支えてくれるだろう。
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